発狂するカルト①「講談社フライデー事件」

大伝道のバブルがあっけなく弾けて、教団内にはどことなく焦燥感が漂っていました。
熱狂が冷めて、あからさまな現実の前に先行きを見出せず、ただ時間が流れていたのです。

大伝道のツケとして、この頃ではマスコミに取り上げられることが多くなっていて、それらは大体批判的な内容のものばかりでしたが、「読売菩薩」の例をひいて、信者の中ではそれらを敵視するような風潮はなく、大川自身も、例年通り、夏の旅行に東南アジアへ出かけたり、世界陸上の開会式を見たりと、見かけ呑気な日々を送っていました。
しかし、大伝道の失敗、財務の危機は、大川を深い不安に陥れ、心を蝕んでいったのでしょう。

とうとう、すべての状況が一変する時がやってきます。
幸福の科学による出版社への威力業務妨害。講談社フライデー事件の勃発です。

1991年8月31日(土)、その日は元々総合本部出社予定がなく、大川は練馬区関町の自宅におり、隣家の秘書詰所(AT呼ばれる)に非番を除く職員数名が通常待機しつつ、静かな朝を迎えていました。

午前9時過ぎから、私は警護課長に同行し、警護課車両のマークⅡで吉祥寺方面に外出していましたが、10時を過ぎた時、ATの中村幸樹(のちに実現党公認で選挙に出馬し落選)より自動車電話に、急きょ本部へ出社の報が入ります。

大川のセンチュリーは通常、警護課主任が運転し、助手席に秘書課長の村田隆信(最近公開された「悪妻封印祈願」で導師を務めている)が搭乗し、後部に大川と恭子らが乗車しますが、すでに村田が本部へ出社後であったため、この日は中村が乗車し、後部も大川ひとりで出発しました。

マークⅡは通常は警護車として後続に付くのですが、この日は予想外の出社となり、戻っても間に合わないため、紀尾井町に先行しました。

ほんの少しの差で、センチュリーより先にマークⅡが紀尾井町ビルの地下駐車場に滑り込むと、入口には秘書部長、課長が待機していました。

間もなく大川が到着すると、すぐに本部フロアーに上がって、主宰室で役職者らと会談に入りました。

昼近くになり、ATに残っていた須呂崇司が、セルシオに恭子を乗せて到着し合流しました。
そして午後になると、今度は大会議室に職員が招集され、ここで次週号のフライデー休刊に向けて、講談社への電話、FAXによる攻撃指示がなされたのです。

会議室での集会後、活動推進局員は興奮した様子で、都内の各支部に連絡を始めました。そして大川らは車で総合本部を後にします。向かった先は講談社。会社前で大川と恭子は車を降り、5分程度ではありましたが、講談社ビルをじっくり眺めます。

再び乗車すると、こんどは中野富士見町の関東本部へ移動しました。
関東本部には夕方4時近くに到着。既に支部レベルの職員、婦人部、青年部が動員されていました。

そしてここで緊急決起大会が開かれ、今度は信者に対し大川から直接指示がなされます。
「とりあえず3日間が勝負。次号を休刊に追い込もう」と。

この後、大川は関町に帰宅。夜8時近くになっていました。

フライデー記事1

フライデー記事2
フライデーの記事のひとつ。
本部から各教団拠点に配信されたもので、FAXのヘッダーには「91年8月31日18時02分 幸福の科学 活動推進局」の印字がある。


ATでは秘書課長、警護課長、秘書課2名、警護課6名が集合。
恭子経由で、マスコミの取材攻勢を避けるため大川夫婦が翌日より自宅を出てホテル西洋銀座に行き、また子供の宏洋と沙也加は、自宅女性秘書4名とともに課員2名が同行し、秋田の恭子の実家へ疎開させる旨の指示がなされました。

翌日の9月1日、午前中に大川夫婦は荷物をまとめて出発。
13:20、子供と女性秘書2名を乗せて、警護課主任がセルシオで羽田へ向け出発。
それ以外の者は電車で移動し、14:50に羽田第二到着ロビーで合流しました。

15:55のANA便で秋田へフライトし、16:55に秋田空港に到着。
空港にて食事をとり、ここからから2台のタクシーに分乗して出発。

19:30に恭子実家に到着し、恭子の両親へ事情の報告を済ませ、実家に子供2名、女性秘書1名を残し、20:30その他は近所の三船旅館へ移動。
ここで東京の本部に報告を入れた際に、翌日2日の8:30より、婦人部中心に電話作戦開始。11:00に本社前にてデモという計画が伝えられました。

住所メモ
秋田行きを命ぜられた私が、当時秘書課だった饗庭浩明(直道)から、ANAのチケットと一緒に渡されたメモ(一部画像加工)。

講談社フライデーへの攻撃の首謀者は、教祖の大川隆法です。
講談社への訴訟を持ちかけてきた弁護士によって、記録は全て消すように入れ知恵され、組織的に証拠隠滅されましたが、それでも教祖の指示による威力業務妨害であったことは隠すことはできませんでした。

また、フライデー次号はなんともなく発行されました。
教団挙げて昼夜なく電話FAX攻撃に勤しんでいた時期には、原稿は既に印刷所に回っており、まったく無意味な行為であったのです。

その半面では、マスコミの取り上げられ方は想定以上のものになり、潜伏先の西洋銀座も嗅ぎつけられたことから、山の上ホテル、高輪プリンス、本天沼の教団事務所と、大川の逃避行は1ヵ月以上の長丁場になります。

その中にあって、表向きの威勢の良さとは裏腹に、移動中にすれ違う一般人の持つカメラにさえ立ち止まって震えるほど、小心者の大川のマスコミへの恐怖感は大きくなっていたようです。

さらに、逃げまくっていたのはマスコミからばかりでなく、内部でも大きな歪が生じていました。

「幸福の科学を潰す気か!!」

四国徳島にいる、実父であり教団顧問であった善川が、事前に何の知らせもなく、このような暴挙に出たことについて、息子につなげと、再三激しく電話を入れてきていたのです。

その連絡も一切取りつがせず、転々と、ひたすら逃げまくる様子に、大川の自伝にあった、幼き日の「愚鈍な亀」の姿を見た気がしました。
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私もペンとネットの力を信じ、「幸福の科学」を手掛かりに、カルトの問題について考えていきます。
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