幸福の科学の奴隷契約
清水富美加の突然の芸能界引退からカルト宗教幸福の科学への出家。そして暴露本の炎上マーケティングから、例によってダミー団体の設置と。
「芸能人の労働環境を糺す会」だそうですが、行動パターンもダミー団体のネーミングセンスも、一連のシナリオを誰が考えたのかが一目瞭然の、発想が貧困でまったく進歩がないですね。

95.3.1 10:02(94.3.1と記載ミス)【パトリオット戦略】
「日蓮正宗有識者の会」
「創価暴力学会被害者の会」
「日本のKGB化を憂える会」
大川直筆の対創価学会攻撃指示書で、得意の怪文書ビラまき作戦が記載されており、大川発案のダミー団体名には「千眼美子」に通じる命名センスのなさが伺えます。
今回もきっと「パトリオットを打ち込む」とか言って興奮して始めたのでしょうが、2~3カ月くらいかけて準備した割に練り込みが甘く、拙速に事を運んでしまって、教団はもうオプションを使い切ってしまいました。
今年は伝道の年だそうで、本来、広報活動は、現場前線の後方支援的な役割のはずだと思いますが、味方の地上部隊ごと爆撃して、気前よく焦土と化してしまった感じです。
これでは信者が日常これから信仰告白などしようものなら、状況を起こす以前より遥かに冷たく厳しいレスポンスが待っていることでしょう。清水富美加にも教団にも、いまや反感と嫌悪、嘲笑ばかりで、もはや好意的な芽など、どこにも生えていません。
ちなみに紹介がてら、今回ダミー団体の代表に収まった弁護士の松井妙子というのは、日本におけるスラップ(威圧訴訟・恫喝訴訟)の典型として語り継がれている、幸福の科学が山口広弁護士に対して行い敗訴した裁判の際の、教団側代理人のひとりだった者です。

大川直筆のSLAPP(威圧恫喝訴訟)指示書
さて、現在の騒動の中で、芸能事務所の労働条件に対して、教団はそれを「奴隷」などという表現で批判して自己正当化を謀っていましたが、職員当時の明細を見つけたついでにもうひとつ、芸能界など可愛いくらいの、幸福の科学職員の残酷な現実をお示ししておきます。
今回根拠とするのは、以下の2つです。

1991年9月明細内訳
【 支 給 】 総支給額 ¥308,148円
内訳
基本給 ¥140,000円
調整費B ¥20,000円
調整費2 ¥148,148円
【 控 除 】 控除合計 ¥36,024円
内訳
健康保険 ¥6,720円 厚生年金保険 ¥11,600円 雇用保険 ¥1,694円
課税対象額 ¥288,134円
所得税 ¥16,010円
【差引支給額】 ¥272,124円
出勤日数 21日
※私は91年8月1日付の入局であったので、教団の経理の都合から8月には支給はなく、この9月度に2か月分が合算(調整費2が8月分ということ)されており、これが職員として初めての給与でした。
調整費Bというのは、本来の基本給が¥160,000円であるところ、入局から半年は試用期間として、このような処理になっています。

1991年10月明細内訳
【 支 給 】 総支給額 ¥160,000円
内訳
基本給 ¥140,000円
調整費B ¥20,000円
【 控 除 】 控除合計 ¥24,760円
内訳
健康保険 ¥6,720円 厚生年金保険 ¥11,600円 雇用保険 ¥880円
課税対象額 ¥140,800円
所得税 ¥5,560円
【差引支給額】 ¥135,240円
出勤日数 21日
上記は入局したての頃のものなので住民税の特別徴収がありませんが、それ以外は前の記事で掲載した明細の内容と基本的に違いはありません。
今回この明細を掲載したポイントは、その時期にあります。
1991年の9月から10月と言えば、幸福の科学が講談社に対して、大川隆法の号令のもと、電話・FAX攻撃やデモ等の組織的な威力業務妨害を行った「講談社フライデー事件」のころに当たります。

こちらは警護課の職員章
通常は銀イブシの職員章をしますが、講演会時など課員の判別を高めるために、警護課だけが付けていたバッチです。一般会員さんがしていた黄色のバッチを特注で赤くしたもので、9つくらいしか作られなかったとのこと。退職時に職員章と一緒に返却しようとしたら、警護課は解散してもうないから記念にあげますと言うので、保存しておきました。
私は総合本部事務局秘書部警護課の職員として入局していたので、職員になって1カ月の頃にこの状況に当たることとなりました。
さて、フライデー事件の勃発は、世間的には91年9月2日となっていますが、教団内では8月31日に、大川が急遽紀尾井町の総合本部に出向いて講談社攻撃を指示し、夕方には中野富士見町にあった関東本部に信者を動員して、まずフライデー次号を休刊に追い込むと宣言するなど、2日前から始まっています。
私は翌9月1日から、大川家長男の宏洋と長女の沙也加、自宅家事手伝いの女性職員4名をともなって、当時教祖補佐であった大川きょう子の実家である秋田まで連れて行き、一週間少しの間滞在し、現地にマスコミ等の訪問がないと判断した段階で、子供と女性職員を残して帰京。すぐに他の課員と合流して、事件発生前から、マスコミを恐れて都内のホテル等を転々と逃げ回っていた大川夫婦に、結局のところ10月下旬のベイNKホールでの講演会を最後に警護課が解散になるまで同行していました。
結局、着替えを取りに半日程度の帰宅をたまにする以外は、日中はずっと大川らに同行し、夜は宿舎の近所か、練馬の自宅横の警護課詰め所に待機しつづけ、8月末から約50日間休みなしです。
時間外労働はいったい何時間になっていたのでしょうか。
明細上は21日の記載ですが、勤怠管理など全くなく、実際の状況は何ひとつ反映していません。凄まじいこき使い方で本当に滅茶苦茶に疲労困憊しました。
信者も職員も愚かな教祖に振り回され、フライデーも通常営業のまま、一方で教団の財務は切迫し、また世間から完全にカルト認定を受けただけのオチでしたが、大川隆法の小心で臆病な人間性をじっくり観察できたことが、せめてもの慰めです。
「芸能人の労働環境を糺す会」だそうですが、行動パターンもダミー団体のネーミングセンスも、一連のシナリオを誰が考えたのかが一目瞭然の、発想が貧困でまったく進歩がないですね。

95.3.1 10:02(94.3.1と記載ミス)【パトリオット戦略】
「日蓮正宗有識者の会」
「創価暴力学会被害者の会」
「日本のKGB化を憂える会」
大川直筆の対創価学会攻撃指示書で、得意の怪文書ビラまき作戦が記載されており、大川発案のダミー団体名には「千眼美子」に通じる命名センスのなさが伺えます。
今回もきっと「パトリオットを打ち込む」とか言って興奮して始めたのでしょうが、2~3カ月くらいかけて準備した割に練り込みが甘く、拙速に事を運んでしまって、教団はもうオプションを使い切ってしまいました。
今年は伝道の年だそうで、本来、広報活動は、現場前線の後方支援的な役割のはずだと思いますが、味方の地上部隊ごと爆撃して、気前よく焦土と化してしまった感じです。
これでは信者が日常これから信仰告白などしようものなら、状況を起こす以前より遥かに冷たく厳しいレスポンスが待っていることでしょう。清水富美加にも教団にも、いまや反感と嫌悪、嘲笑ばかりで、もはや好意的な芽など、どこにも生えていません。
ちなみに紹介がてら、今回ダミー団体の代表に収まった弁護士の松井妙子というのは、日本におけるスラップ(威圧訴訟・恫喝訴訟)の典型として語り継がれている、幸福の科学が山口広弁護士に対して行い敗訴した裁判の際の、教団側代理人のひとりだった者です。

大川直筆のSLAPP(威圧恫喝訴訟)指示書
さて、現在の騒動の中で、芸能事務所の労働条件に対して、教団はそれを「奴隷」などという表現で批判して自己正当化を謀っていましたが、職員当時の明細を見つけたついでにもうひとつ、芸能界など可愛いくらいの、幸福の科学職員の残酷な現実をお示ししておきます。
今回根拠とするのは、以下の2つです。

1991年9月明細内訳
【 支 給 】 総支給額 ¥308,148円
内訳
基本給 ¥140,000円
調整費B ¥20,000円
調整費2 ¥148,148円
【 控 除 】 控除合計 ¥36,024円
内訳
健康保険 ¥6,720円 厚生年金保険 ¥11,600円 雇用保険 ¥1,694円
課税対象額 ¥288,134円
所得税 ¥16,010円
【差引支給額】 ¥272,124円
出勤日数 21日
※私は91年8月1日付の入局であったので、教団の経理の都合から8月には支給はなく、この9月度に2か月分が合算(調整費2が8月分ということ)されており、これが職員として初めての給与でした。
調整費Bというのは、本来の基本給が¥160,000円であるところ、入局から半年は試用期間として、このような処理になっています。

1991年10月明細内訳
【 支 給 】 総支給額 ¥160,000円
内訳
基本給 ¥140,000円
調整費B ¥20,000円
【 控 除 】 控除合計 ¥24,760円
内訳
健康保険 ¥6,720円 厚生年金保険 ¥11,600円 雇用保険 ¥880円
課税対象額 ¥140,800円
所得税 ¥5,560円
【差引支給額】 ¥135,240円
出勤日数 21日
上記は入局したての頃のものなので住民税の特別徴収がありませんが、それ以外は前の記事で掲載した明細の内容と基本的に違いはありません。
今回この明細を掲載したポイントは、その時期にあります。
1991年の9月から10月と言えば、幸福の科学が講談社に対して、大川隆法の号令のもと、電話・FAX攻撃やデモ等の組織的な威力業務妨害を行った「講談社フライデー事件」のころに当たります。

こちらは警護課の職員章
通常は銀イブシの職員章をしますが、講演会時など課員の判別を高めるために、警護課だけが付けていたバッチです。一般会員さんがしていた黄色のバッチを特注で赤くしたもので、9つくらいしか作られなかったとのこと。退職時に職員章と一緒に返却しようとしたら、警護課は解散してもうないから記念にあげますと言うので、保存しておきました。
私は総合本部事務局秘書部警護課の職員として入局していたので、職員になって1カ月の頃にこの状況に当たることとなりました。
さて、フライデー事件の勃発は、世間的には91年9月2日となっていますが、教団内では8月31日に、大川が急遽紀尾井町の総合本部に出向いて講談社攻撃を指示し、夕方には中野富士見町にあった関東本部に信者を動員して、まずフライデー次号を休刊に追い込むと宣言するなど、2日前から始まっています。
私は翌9月1日から、大川家長男の宏洋と長女の沙也加、自宅家事手伝いの女性職員4名をともなって、当時教祖補佐であった大川きょう子の実家である秋田まで連れて行き、一週間少しの間滞在し、現地にマスコミ等の訪問がないと判断した段階で、子供と女性職員を残して帰京。すぐに他の課員と合流して、事件発生前から、マスコミを恐れて都内のホテル等を転々と逃げ回っていた大川夫婦に、結局のところ10月下旬のベイNKホールでの講演会を最後に警護課が解散になるまで同行していました。
結局、着替えを取りに半日程度の帰宅をたまにする以外は、日中はずっと大川らに同行し、夜は宿舎の近所か、練馬の自宅横の警護課詰め所に待機しつづけ、8月末から約50日間休みなしです。
時間外労働はいったい何時間になっていたのでしょうか。
明細上は21日の記載ですが、勤怠管理など全くなく、実際の状況は何ひとつ反映していません。凄まじいこき使い方で本当に滅茶苦茶に疲労困憊しました。
信者も職員も愚かな教祖に振り回され、フライデーも通常営業のまま、一方で教団の財務は切迫し、また世間から完全にカルト認定を受けただけのオチでしたが、大川隆法の小心で臆病な人間性をじっくり観察できたことが、せめてもの慰めです。
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