Happy Science #Alternative Facts
「Alternative Facts」(オルタナティブ・ファクト)
直訳すると「代替的事実」、「別の事実」という意味の言葉です。
先月1月20日に行われたトランプ大統領就任式の観客数をめぐって、過去最少と報じた米メディアに対して、トランプ政権側のショーン・スパイサー報道官は、観客は過去最多だったと反論しました。

ショーン・スパイサー報道官
しかし、このスパイサー報道官の発言に対して、米メディアは、オバマ前大統領の2009年の就任式当時の写真と細かく比較するなどして、スパイサー報道官の反論が根拠のない虚偽であることを示し、さらに厳しい批判が高まります。

ケリーアン・コンウェイ大統領顧問
そして、NBCテレビの「ミート・ザ・プレス」に出演したトランプ大統領の側近で選対本部長も務めていたケリーアン・コンウェイ大統領顧問が、スパイサー報道官発言の問題に関する討論の最中、番組司会者のチャック・トッド氏の厳しい追及に耐えかねて苦し紛れに放った言葉が、この「Alternative Facts」(代替的事実)という言葉でした。
しかし、「代替的事実」などと言ったところで、要するに所詮は「ウソ」に他ならないと瞬殺され、この自爆劇にTwitterがさっそく反応。HOTワードとしてトレンドランキング入りし、皮肉を込めたハッシュタグが拡散されることとなります。
一昨年から去年を通じて、日本でも様々なウソが暴かれてきましたが、例えば、さしずめこんな使い方になるかと思います。
STAP細胞はあります #alt-facts

政権の中枢にある者が、明らかに事実に反する主張の過ちを認めず、公然と「代替的事実」などと強弁する姿勢には、「事実」に基づかないウソでも、それが時に、事実確認されないまま、「真実」として安易にまかり通ってしまう社会的風潮がありそうです。
150年以上の歴史を持つオックスフォード英語辞典の編集者らが、その年を最も象徴する単語として1単語を選出する「Word of the Year」というものがあります。
日本での「新語・流行語大賞」のようなもの(格が違う感じはしますが)ですが、編集者らは2016年の「Word of the Year」に、「Post-Truth」(ポスト・トゥルース)という言葉を選出し、その意味として、「世論形成において、客観的事実よりも、感情や個人的信念への説得の方が影響力を有する状況」と定義しています。
今年の単語として選出され定義付けされる以前に、こうした手法が存在していなかったわけではありませんが、イギリスでのEU離脱問題にかかる国民投票や、アメリカ大統領選等に露骨に表れた状況への警鐘なのでしょう。
根拠や客観性を軽視し、感情的なアピールを重視する。政治家であれメディアであれ、このような手法を弄するような輩には、ロクなものはいないと思いますが、それを受け止める特定の支持者がいて初めて成立することであって、支持者が増幅した感情のうねりにリテラシーのないものたちが巻き込まれていくという社会現象は、熱狂が去ったあとに、大きな後悔を残します。
さて、政治的プロパガンダに使われた際の危険性から問題視されたこのことですが、宗教やカルト問題の領域では、今更ながらのことであったりします。

街頭演説する大川隆法(やや日刊カルト新聞より)
信者数は1100万 #alt-facts
信者の国会議員は100人近くいる #alt-facts
「事実とは実際に存在するもの、あるいは客観的に本当であるもの」
しかし、そもそも科学的検証になじまない形而上的世界観を、「信じる」ことを前提として成り立つ宗教の業界では、もともと根拠や客観性は軽視されがちです。
ただし、「事実」が無視されているというより、己が支持する思想・信条に沿う「代替的事実」が、緻密な検証なく無批判に採用され、自分の中での「事実」=「真実」として、区別が曖昧な状態になっていくと言うべきかも知れません。
多くの者が最初から全面的に鵜呑みにしていたわけでなく、審議不十分として判断を留保していた部分が多々あったのに、受け入れた部分への自己の感情の肯定感が増していくと、反対に理性的に留保していたにも係わらず、その否定的な感覚に後ろめたさを覚えたりして、次第に知的な作業が疎かになるようで、私自身も会員であった当時を回顧したとき、その過程を大いに反省するところがあります。
宗教・信仰の世界は、基本的に根拠と客観性を重視する科学とは相容れないもので、「Post-Truth」や「Alternative Facts」が蔓延りやすい環境にあり、それぞれがその存在意義を尊重しながら、謙虚に分をわきまえておく必要があるのだろうと思います。
「幸福の科学」も、その発足当時は、そうした謙虚で真摯な探求の態度を、この団体の名称に込めてスタートしていました。
しかし、その化けの皮も直ぐに剥がれて、傲慢な宗教の本質がにじみ出て、今ではご覧の通りの、信者をロボット化するカルトむき出しとなりました。
2007,12.22大川隆法「君よ、涙の谷を渡れ」より抜粋
「だから私は言います。証明する気などありません。
ただ信じなさい。ついて来なさい。私について来なさい。
我が言葉を信じなさい。ついて来なさい。
どうか、信じて、ついて来てください。
ただ、ついて来てください。
判断しなくていいです。ついて来てください。
私について来てください。
それが、いちばん、単純化された、信仰の姿です。」

開き直って言っていますが、実際のところ、証明「する気がない」のではなく、「できない」のです。
信者はどうか。
法外な値段の教団のガラクタグッツや、くだらない祈祷への布施、また教団書籍やチケットの購入ノルマに、内輪ウケイベントへのお誘いと、心身ともに搾り取られて、ぼろ雑巾のように疲弊し、生気を失った信者の群れに、いったいマトモな人間の誰が仲間入りしたいと思うのでしょうか。
そして、飽くことのない煩悩につき動かされる、軽薄でありがたみの欠片もない教祖一族と教団幹部たちの姿を見れば、信じる者はおろか、説くもの自らをも救うことのできない、まったく無意味見価値な法であることが実証されてしまっているのですから。
「科学は「信じる」ものではなく、事実として誰もが再現できるものでなければならない」
池内了著「宇宙学者が「読む」」(田畑書店)
大川の法に「幸福」の再現性がないのですから、もう「科学」という看板は降ろすべきですね。
さて、「Post-Truth」と「Alternative Facts」を取り上げた機会に、カルト批判の現場からとして、もうひとつ触れておきたいことがあります。
それは、アンチカルトの側としても、「Post-Truth」や「Alternative Facts」への戒めを強固にすべきと思うことです。
カルト批判の中にも、客観性や根拠のない証言、多分に演出めいたかたちでの告発を執拗に繰り返す態度を見かけることがあります。
それはそれで義憤なのかも知れませんが、そのようなやり方には私は不同意です。
ただでさえ信者は、教団の大本営発表のみを採用するマインドでいるわけですから、信者にとって批判者の呼びかけは虚偽としか見えないところへ持ってきて、教団側がアンチサイトなどデマだと強弁する余地を与えてしまうようなことになるでしょう。
また、信者の理解を得難い状況で、まず一般の方に理解を深めて頂く必要があるのに、そうした態度では、リテラシーのある一般の方の信用も失ってしまうことになってしまいます。
いかに根拠を掲げても、受け入れる準備を自ら整えない限り信者には通じません。
ただ、そうした方々が目を覚まし、自ら歩みだそうとするときの道標としてケルンをつんでおく価値があるのだと思います。
その時に、感情的に都合の良い証拠を収集してしまうような習慣から抜け出せなかったら、体質が変わらないまま、ただ所属が変わっただけで、きっとまた同じような過ちを繰り返してしまうでしょう。
物理的に脱会すればすべて終わりなのでなく、カルトに囚われていた心の在りようそのものから脱却しないと、せめてもの経験が無駄になってしまいます。
だからこそ、そのために「事実」が必要なのだと思います。
虚偽・虚構に対して、同じような「方便」で応じるのでなく、カルトが発信するウソに対して「Fact-Check」(事実確認)というカウンターを丁寧に合わせていく、メディアやアンチに求められていることは、そういうことではないでしょうか。
もちろん自制・自戒を込めて。

カール・セーガン博士
迷信や似非科学を支持する人たちも、懐疑主義者と同じように感情を持った人間であり、世界のしくみや世界の中での自分の役割を理解しようとしていることに変わりはないのだ。
似非科学は、科学が満たしてくれないような、感情面に強い欲求に訴えかけ、人間にはないがゆえに求めてやまない力の幻想を与えてくれる。
人間というものは、絶対に確かだといえるものが欲しくてたまらないのかもしれない。しかし、確信の誘惑を断ち切るのは難しい。
そもそも科学がいざなう先にあるのは、ありのままの世界で、こうあってほしいという願望ではない。
似非科学は、現実と対決すれば、否応なく比較結果を突きつけられる。議論のレベルも低いし、「証拠」を採用するときの基準もずっと甘い。だからこそ科学より一般大衆にアピールしやすいのだろう。
似非科学や迷信は、打ち出の小槌のごとき気前のいい約束をする。その言葉に、これまでどれだけ多くの信者が失望させられ。裏切られてきたことだろうか。
きちんとした証拠がなければ知識とはいえないと考える人達が増えれば、似非科学のはびこる余地はなくはるはずだ。あいにく大衆文化では「悪貨は良貨を駆逐する」というグレシャムの法則がまかり通っている。つまり悪い科学は良い科学を駆逐してしまうのだ。
批判的な科学の方法論をきちんと伝えなければ、一般の人には科学と似非科学の見分けなどつけられないだろう。そのどちらもが言いっぱなしの主張にしか見えないに違いない。
直訳すると「代替的事実」、「別の事実」という意味の言葉です。
先月1月20日に行われたトランプ大統領就任式の観客数をめぐって、過去最少と報じた米メディアに対して、トランプ政権側のショーン・スパイサー報道官は、観客は過去最多だったと反論しました。

ショーン・スパイサー報道官
しかし、このスパイサー報道官の発言に対して、米メディアは、オバマ前大統領の2009年の就任式当時の写真と細かく比較するなどして、スパイサー報道官の反論が根拠のない虚偽であることを示し、さらに厳しい批判が高まります。

ケリーアン・コンウェイ大統領顧問
そして、NBCテレビの「ミート・ザ・プレス」に出演したトランプ大統領の側近で選対本部長も務めていたケリーアン・コンウェイ大統領顧問が、スパイサー報道官発言の問題に関する討論の最中、番組司会者のチャック・トッド氏の厳しい追及に耐えかねて苦し紛れに放った言葉が、この「Alternative Facts」(代替的事実)という言葉でした。
しかし、「代替的事実」などと言ったところで、要するに所詮は「ウソ」に他ならないと瞬殺され、この自爆劇にTwitterがさっそく反応。HOTワードとしてトレンドランキング入りし、皮肉を込めたハッシュタグが拡散されることとなります。
一昨年から去年を通じて、日本でも様々なウソが暴かれてきましたが、例えば、さしずめこんな使い方になるかと思います。
STAP細胞はあります #alt-facts

政権の中枢にある者が、明らかに事実に反する主張の過ちを認めず、公然と「代替的事実」などと強弁する姿勢には、「事実」に基づかないウソでも、それが時に、事実確認されないまま、「真実」として安易にまかり通ってしまう社会的風潮がありそうです。
150年以上の歴史を持つオックスフォード英語辞典の編集者らが、その年を最も象徴する単語として1単語を選出する「Word of the Year」というものがあります。
日本での「新語・流行語大賞」のようなもの(格が違う感じはしますが)ですが、編集者らは2016年の「Word of the Year」に、「Post-Truth」(ポスト・トゥルース)という言葉を選出し、その意味として、「世論形成において、客観的事実よりも、感情や個人的信念への説得の方が影響力を有する状況」と定義しています。
今年の単語として選出され定義付けされる以前に、こうした手法が存在していなかったわけではありませんが、イギリスでのEU離脱問題にかかる国民投票や、アメリカ大統領選等に露骨に表れた状況への警鐘なのでしょう。
根拠や客観性を軽視し、感情的なアピールを重視する。政治家であれメディアであれ、このような手法を弄するような輩には、ロクなものはいないと思いますが、それを受け止める特定の支持者がいて初めて成立することであって、支持者が増幅した感情のうねりにリテラシーのないものたちが巻き込まれていくという社会現象は、熱狂が去ったあとに、大きな後悔を残します。
さて、政治的プロパガンダに使われた際の危険性から問題視されたこのことですが、宗教やカルト問題の領域では、今更ながらのことであったりします。

街頭演説する大川隆法(やや日刊カルト新聞より)
信者数は1100万 #alt-facts
信者の国会議員は100人近くいる #alt-facts
「事実とは実際に存在するもの、あるいは客観的に本当であるもの」
しかし、そもそも科学的検証になじまない形而上的世界観を、「信じる」ことを前提として成り立つ宗教の業界では、もともと根拠や客観性は軽視されがちです。
ただし、「事実」が無視されているというより、己が支持する思想・信条に沿う「代替的事実」が、緻密な検証なく無批判に採用され、自分の中での「事実」=「真実」として、区別が曖昧な状態になっていくと言うべきかも知れません。
多くの者が最初から全面的に鵜呑みにしていたわけでなく、審議不十分として判断を留保していた部分が多々あったのに、受け入れた部分への自己の感情の肯定感が増していくと、反対に理性的に留保していたにも係わらず、その否定的な感覚に後ろめたさを覚えたりして、次第に知的な作業が疎かになるようで、私自身も会員であった当時を回顧したとき、その過程を大いに反省するところがあります。
宗教・信仰の世界は、基本的に根拠と客観性を重視する科学とは相容れないもので、「Post-Truth」や「Alternative Facts」が蔓延りやすい環境にあり、それぞれがその存在意義を尊重しながら、謙虚に分をわきまえておく必要があるのだろうと思います。
「幸福の科学」も、その発足当時は、そうした謙虚で真摯な探求の態度を、この団体の名称に込めてスタートしていました。
しかし、その化けの皮も直ぐに剥がれて、傲慢な宗教の本質がにじみ出て、今ではご覧の通りの、信者をロボット化するカルトむき出しとなりました。
2007,12.22大川隆法「君よ、涙の谷を渡れ」より抜粋
「だから私は言います。証明する気などありません。
ただ信じなさい。ついて来なさい。私について来なさい。
我が言葉を信じなさい。ついて来なさい。
どうか、信じて、ついて来てください。
ただ、ついて来てください。
判断しなくていいです。ついて来てください。
私について来てください。
それが、いちばん、単純化された、信仰の姿です。」

開き直って言っていますが、実際のところ、証明「する気がない」のではなく、「できない」のです。
信者はどうか。
法外な値段の教団のガラクタグッツや、くだらない祈祷への布施、また教団書籍やチケットの購入ノルマに、内輪ウケイベントへのお誘いと、心身ともに搾り取られて、ぼろ雑巾のように疲弊し、生気を失った信者の群れに、いったいマトモな人間の誰が仲間入りしたいと思うのでしょうか。
そして、飽くことのない煩悩につき動かされる、軽薄でありがたみの欠片もない教祖一族と教団幹部たちの姿を見れば、信じる者はおろか、説くもの自らをも救うことのできない、まったく無意味見価値な法であることが実証されてしまっているのですから。
「科学は「信じる」ものではなく、事実として誰もが再現できるものでなければならない」
池内了著「宇宙学者が「読む」」(田畑書店)
大川の法に「幸福」の再現性がないのですから、もう「科学」という看板は降ろすべきですね。
さて、「Post-Truth」と「Alternative Facts」を取り上げた機会に、カルト批判の現場からとして、もうひとつ触れておきたいことがあります。
それは、アンチカルトの側としても、「Post-Truth」や「Alternative Facts」への戒めを強固にすべきと思うことです。
カルト批判の中にも、客観性や根拠のない証言、多分に演出めいたかたちでの告発を執拗に繰り返す態度を見かけることがあります。
それはそれで義憤なのかも知れませんが、そのようなやり方には私は不同意です。
ただでさえ信者は、教団の大本営発表のみを採用するマインドでいるわけですから、信者にとって批判者の呼びかけは虚偽としか見えないところへ持ってきて、教団側がアンチサイトなどデマだと強弁する余地を与えてしまうようなことになるでしょう。
また、信者の理解を得難い状況で、まず一般の方に理解を深めて頂く必要があるのに、そうした態度では、リテラシーのある一般の方の信用も失ってしまうことになってしまいます。
いかに根拠を掲げても、受け入れる準備を自ら整えない限り信者には通じません。
ただ、そうした方々が目を覚まし、自ら歩みだそうとするときの道標としてケルンをつんでおく価値があるのだと思います。
その時に、感情的に都合の良い証拠を収集してしまうような習慣から抜け出せなかったら、体質が変わらないまま、ただ所属が変わっただけで、きっとまた同じような過ちを繰り返してしまうでしょう。
物理的に脱会すればすべて終わりなのでなく、カルトに囚われていた心の在りようそのものから脱却しないと、せめてもの経験が無駄になってしまいます。
だからこそ、そのために「事実」が必要なのだと思います。
虚偽・虚構に対して、同じような「方便」で応じるのでなく、カルトが発信するウソに対して「Fact-Check」(事実確認)というカウンターを丁寧に合わせていく、メディアやアンチに求められていることは、そういうことではないでしょうか。
もちろん自制・自戒を込めて。

カール・セーガン博士
迷信や似非科学を支持する人たちも、懐疑主義者と同じように感情を持った人間であり、世界のしくみや世界の中での自分の役割を理解しようとしていることに変わりはないのだ。
似非科学は、科学が満たしてくれないような、感情面に強い欲求に訴えかけ、人間にはないがゆえに求めてやまない力の幻想を与えてくれる。
人間というものは、絶対に確かだといえるものが欲しくてたまらないのかもしれない。しかし、確信の誘惑を断ち切るのは難しい。
そもそも科学がいざなう先にあるのは、ありのままの世界で、こうあってほしいという願望ではない。
似非科学は、現実と対決すれば、否応なく比較結果を突きつけられる。議論のレベルも低いし、「証拠」を採用するときの基準もずっと甘い。だからこそ科学より一般大衆にアピールしやすいのだろう。
似非科学や迷信は、打ち出の小槌のごとき気前のいい約束をする。その言葉に、これまでどれだけ多くの信者が失望させられ。裏切られてきたことだろうか。
きちんとした証拠がなければ知識とはいえないと考える人達が増えれば、似非科学のはびこる余地はなくはるはずだ。あいにく大衆文化では「悪貨は良貨を駆逐する」というグレシャムの法則がまかり通っている。つまり悪い科学は良い科学を駆逐してしまうのだ。
批判的な科学の方法論をきちんと伝えなければ、一般の人には科学と似非科学の見分けなどつけられないだろう。そのどちらもが言いっぱなしの主張にしか見えないに違いない。
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