「神託結婚」― 異常性の発現
幸福の科学が、おとなしめの学習団体から、その仮面を被ってカルトの本性を現すきっかけとなった要素に「神託結婚」があります。
「神託結婚」とは、幸福の科学の指導霊団からの神託といって、職員同士の結婚を勧告するものです。
この無謀な縁組は、空気の読めない世話好きの仲人のお節介とは次元が異なり、それは突然やってきて、当事者は大川への信仰を試される状況に直面することになります。
そしてこのことが、教団内における最初の事件につながっていきます。
この神託結婚に関わる様々な出来事については、93年12月に現代書林から出版された「虚業教団」に詳しく記載されています。

この本は絶版となっているので、現状その内容に触れようとしたら、僅かに中古で流通しているものを手にするか、ネット上の断片的な情報を検索するしかありませんが、著者の関谷氏ご自身が神託結婚に翻弄された当事者の一人で、初期教団内の客観的な事実関係の部分の記述は正確で、また脱会間もない人のメンタリティを理解する意味でも、たいへん貴重な手記と言えます。
ちなみに、この本に関連して教団が関谷氏に対して起こした訴訟も、教団側の敗訴に終わりました。
この本の中にもありますが、そもそも教祖の大川自身が神託結婚でした。
「関谷さん、実は私、結婚することにしたんです」
「関谷さんは、たぶん知りませんよ。あの方はボランティアですから」
「じつは木村恭子さんという会員です。これは、神示が下っての神託結婚なのです」
「もうすぐ東大を卒業される、素晴らしく優秀なお嬢さんですよ」
1987年12月26日、吉祥寺の料亭「双葉」にて、大川は関谷氏に切り出します。そしていきなり、
「それでこの際、関谷さんにも結婚していただくことになりました」
「これは神託結婚です。天上界の計画通りにしていただきます」
「神のご意志に従ってください。私たちはみんな、自分の使命を果たさねばなりません」
突然のことに狼狽する同氏を意に介さず、威圧的な口調で承諾を迫まってきました。
「神の意志」「使命」と言われて抗弁のできなくなった同氏が、釈然としないながら承諾すると、大川はこう言ったそうです。
「よかった。何しろ、神理を説くトップの私だけの結婚となると、会員からいろいろなことを言われそうで、困っていたんですよ。しかし、原さんと関谷さんが結婚するとなれば、意外性ということで話題になり、私のほうの話は半減されて助かります」
その後、それぞれが相互に媒酌人を務めるかたちで、88年4月10日に大川の、二か月後の6月26日に関谷氏の結婚式が、どちらも杉並会館にて行なわれることになります。

見かけは普通の結婚式の祝賀ムード

しかし、大川指名による神託結婚という異常な空間

これがやがて、教団破綻の序章となる
自身の結婚の成功と、関谷氏の神託結婚の達成に気を良くしたのか、大川はさらなる“神託”を続けていくのですが、このことが先に紹介した阿部浩之さんの、神託結婚拒絶と脱会という、当時の教団を揺るがす一大事につながっていきます。
関谷氏の「虚業教団」より、その様子の一部を引用し、仮名部分を修正して以下にご紹介しましょう。
大川は阿部を呼んで、ちょっと話があると言ったらしい。
後日、阿部本人から聞いたところを、そのまま書いてみよう。
指定の場所へ行ってみると、大川夫妻と真理子が待っていた。
席についた阿部の前に、大川がカレンダーを広げた。
「この日です」と大川は、カレンダーを指した。
「私が自転車を走らせて、阿部さんのために、この日に式場の予約をしてきました」
阿部が混乱していると、おもむろにこう言ったのである。
「ここにいる伊藤真理子さんと結婚式を挙げていただきます」
あっけにとられて、阿部はしばらく返事ができなかった。
原と私のケースで一度成功していたから、大川には勝算があったのだろう。自信たっぷりだったという。
あのときの原もそうだったが、真理子のほうはすでに言い含められていた。
しかし私とは違い、阿部は簡単には言いなりになる男ではなかった。
難色を示すと、大川は怒りを爆発させた。恭子、真理子の前で、彼を徹底的に侮辱したという。
「あなたは何もわかっていないんだ。だいたいにおいて子どもすぎる。社会的にもっと飛躍しないと、神理を学んでも何にもならない!」
どうか、この上記の状況を想像しながら読んで頂きたいと思います。この異常さがご理解頂けるでしょう。
ゆるやかな多様性や寛容さを説き、人の関心を集めておいて、いったん取り込んだ者を、言行不一致の極端な二分法、二者択一に追い込んで支配していくのがカルトの本質と言えます。
人には自由意思があるのですから、結婚相手をどう選ぼうと自由であり、本来何の問題もないことですが、当時は宗教団体ではないものの、実質的に宗教性を帯びた団体において、教祖の“神託”を拒絶することは、その信仰を捨てる重大な選択に他なりません。
この団体の門をくぐった真剣さの分だけ、阿部さんの苦悩がいかばかりかと思いますが、このあと少々の紆余曲折を経て、神託結婚を拒絶したことで阿部さんは役職を解かれ、自宅謹慎の処分を受け、反省の色がなければ退職勧告すると通達されます。
こんな処分は完全に常識外れの異常なハラスメントですが、こうしたことも含めて、結果的に阿部さんは会を離れていきました。
阿部さんが去った後も、自分を否定した者への大川の憎しみは根深く、誰もが知る優秀職員の脱会に会内が騒然としていたことから、「阿部元講師に関する当会の基本的な考え方」という文書を作って回覧させています。

文書は、脱会者に石を持って追うもので、およそ「偉大なる常識人」を標榜する者の言葉とは言えない、一方的な批判で埋め尽くされています。
ただし最後に、「以上の如く、当会の発展途上の現機構には即さない為に本部を退職しましたが、法を学ぶ熱意、その他優れた点も多く持っており、本部としては温かく見守っております」とあり、前段の質とは違和感を与える部分がありました。
この最後の文章は、実は関谷氏が阿部さんへの、せめてもの気持ちで加えたものであったことが「虚業教団」に記されています。
そして、この阿部さんの事件をきっかけに、大川が自分の結婚の隠れ蓑に使った、関谷・原の両氏も教団を去っていくことになるのです。
時が流れ、“神託”で結婚したはずの当の大川隆法自身も離婚しました。
若い嫁に乗り換えるために、元嫁の口が臭く、トイレが汚いとか惨めな言い訳を重ねていましたが、結局のところ大川の“神託”など、所詮はその程度の、ママゴト遊びでもするかの如くの、イイカゲンで幼稚なものでしかないことが明らかとなって、今日では、“神託”とやらで振り回され、引き離された者には、ただ単に教祖の大川に弄ばれていただけだったという残酷な事実が突きつけられたのです。
「神託結婚」とは、幸福の科学の指導霊団からの神託といって、職員同士の結婚を勧告するものです。
この無謀な縁組は、空気の読めない世話好きの仲人のお節介とは次元が異なり、それは突然やってきて、当事者は大川への信仰を試される状況に直面することになります。
そしてこのことが、教団内における最初の事件につながっていきます。
この神託結婚に関わる様々な出来事については、93年12月に現代書林から出版された「虚業教団」に詳しく記載されています。

この本は絶版となっているので、現状その内容に触れようとしたら、僅かに中古で流通しているものを手にするか、ネット上の断片的な情報を検索するしかありませんが、著者の関谷氏ご自身が神託結婚に翻弄された当事者の一人で、初期教団内の客観的な事実関係の部分の記述は正確で、また脱会間もない人のメンタリティを理解する意味でも、たいへん貴重な手記と言えます。
ちなみに、この本に関連して教団が関谷氏に対して起こした訴訟も、教団側の敗訴に終わりました。
この本の中にもありますが、そもそも教祖の大川自身が神託結婚でした。
「関谷さん、実は私、結婚することにしたんです」
「関谷さんは、たぶん知りませんよ。あの方はボランティアですから」
「じつは木村恭子さんという会員です。これは、神示が下っての神託結婚なのです」
「もうすぐ東大を卒業される、素晴らしく優秀なお嬢さんですよ」
1987年12月26日、吉祥寺の料亭「双葉」にて、大川は関谷氏に切り出します。そしていきなり、
「それでこの際、関谷さんにも結婚していただくことになりました」
「これは神託結婚です。天上界の計画通りにしていただきます」
「神のご意志に従ってください。私たちはみんな、自分の使命を果たさねばなりません」
突然のことに狼狽する同氏を意に介さず、威圧的な口調で承諾を迫まってきました。
「神の意志」「使命」と言われて抗弁のできなくなった同氏が、釈然としないながら承諾すると、大川はこう言ったそうです。
「よかった。何しろ、神理を説くトップの私だけの結婚となると、会員からいろいろなことを言われそうで、困っていたんですよ。しかし、原さんと関谷さんが結婚するとなれば、意外性ということで話題になり、私のほうの話は半減されて助かります」
その後、それぞれが相互に媒酌人を務めるかたちで、88年4月10日に大川の、二か月後の6月26日に関谷氏の結婚式が、どちらも杉並会館にて行なわれることになります。

見かけは普通の結婚式の祝賀ムード

しかし、大川指名による神託結婚という異常な空間

これがやがて、教団破綻の序章となる
自身の結婚の成功と、関谷氏の神託結婚の達成に気を良くしたのか、大川はさらなる“神託”を続けていくのですが、このことが先に紹介した阿部浩之さんの、神託結婚拒絶と脱会という、当時の教団を揺るがす一大事につながっていきます。
関谷氏の「虚業教団」より、その様子の一部を引用し、仮名部分を修正して以下にご紹介しましょう。
大川は阿部を呼んで、ちょっと話があると言ったらしい。
後日、阿部本人から聞いたところを、そのまま書いてみよう。
指定の場所へ行ってみると、大川夫妻と真理子が待っていた。
席についた阿部の前に、大川がカレンダーを広げた。
「この日です」と大川は、カレンダーを指した。
「私が自転車を走らせて、阿部さんのために、この日に式場の予約をしてきました」
阿部が混乱していると、おもむろにこう言ったのである。
「ここにいる伊藤真理子さんと結婚式を挙げていただきます」
あっけにとられて、阿部はしばらく返事ができなかった。
原と私のケースで一度成功していたから、大川には勝算があったのだろう。自信たっぷりだったという。
あのときの原もそうだったが、真理子のほうはすでに言い含められていた。
しかし私とは違い、阿部は簡単には言いなりになる男ではなかった。
難色を示すと、大川は怒りを爆発させた。恭子、真理子の前で、彼を徹底的に侮辱したという。
「あなたは何もわかっていないんだ。だいたいにおいて子どもすぎる。社会的にもっと飛躍しないと、神理を学んでも何にもならない!」
どうか、この上記の状況を想像しながら読んで頂きたいと思います。この異常さがご理解頂けるでしょう。
ゆるやかな多様性や寛容さを説き、人の関心を集めておいて、いったん取り込んだ者を、言行不一致の極端な二分法、二者択一に追い込んで支配していくのがカルトの本質と言えます。
人には自由意思があるのですから、結婚相手をどう選ぼうと自由であり、本来何の問題もないことですが、当時は宗教団体ではないものの、実質的に宗教性を帯びた団体において、教祖の“神託”を拒絶することは、その信仰を捨てる重大な選択に他なりません。
この団体の門をくぐった真剣さの分だけ、阿部さんの苦悩がいかばかりかと思いますが、このあと少々の紆余曲折を経て、神託結婚を拒絶したことで阿部さんは役職を解かれ、自宅謹慎の処分を受け、反省の色がなければ退職勧告すると通達されます。
こんな処分は完全に常識外れの異常なハラスメントですが、こうしたことも含めて、結果的に阿部さんは会を離れていきました。
阿部さんが去った後も、自分を否定した者への大川の憎しみは根深く、誰もが知る優秀職員の脱会に会内が騒然としていたことから、「阿部元講師に関する当会の基本的な考え方」という文書を作って回覧させています。

文書は、脱会者に石を持って追うもので、およそ「偉大なる常識人」を標榜する者の言葉とは言えない、一方的な批判で埋め尽くされています。
ただし最後に、「以上の如く、当会の発展途上の現機構には即さない為に本部を退職しましたが、法を学ぶ熱意、その他優れた点も多く持っており、本部としては温かく見守っております」とあり、前段の質とは違和感を与える部分がありました。
この最後の文章は、実は関谷氏が阿部さんへの、せめてもの気持ちで加えたものであったことが「虚業教団」に記されています。
そして、この阿部さんの事件をきっかけに、大川が自分の結婚の隠れ蓑に使った、関谷・原の両氏も教団を去っていくことになるのです。
時が流れ、“神託”で結婚したはずの当の大川隆法自身も離婚しました。
若い嫁に乗り換えるために、元嫁の口が臭く、トイレが汚いとか惨めな言い訳を重ねていましたが、結局のところ大川の“神託”など、所詮はその程度の、ママゴト遊びでもするかの如くの、イイカゲンで幼稚なものでしかないことが明らかとなって、今日では、“神託”とやらで振り回され、引き離された者には、ただ単に教祖の大川に弄ばれていただけだったという残酷な事実が突きつけられたのです。
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