理想が幻想に。やがて妄想へ。
「なぜ、あんな宗教に入信したのですか?」
よく聞かれることです。
イタコ霊言、ちんけなコスプレなどのインパクトがよほど強いのでしょう。
最近もある法律家の方と色々とお話しした後、まったく不思議といった感じに同様の質問をされました。
「あんな・こんな」という念頭には、教祖の大川の奇行や言動があることは容易に想像できます。
それが世間からの「カルト認定」であり、それ自体は正しい評価と言えます。ただし、逆に「そんなの」で入会した人などは殆どいないのです。
表面的に顕著な如何わしさに目を奪われることが、カルト問題の根本的理解を妨げてもいる側面もあるようです。
事の本質を把握するためには、入会した動機と、辞められないでいる状況とは分けて考える必要があります。
以下は、月刊誌の創刊号の表紙です。中身はワープロ作成ですが、手作り感満載の冊子です。
この中に「正法の定義」という大川の一文があります。
当初は宗教法人ではなく、宗教化にも否定的な言語的事実もあったくらいですが、団体発足当時、大川がどんなことを語っていたのか、その部分を引用してみましょう。
(以下の文章は、当時の会内研修会での課題論文への総評として書かれたものです)

さて3番目の問題としての「正法の定義」ですが、これに手こずった方も数多くいたようです。私の本心は、皆様がなぜ数ある教えの中から幸福の科学を選んだのか、その判断の基準となる考えをきいてみたかったし、またこの「正法の定義」の決定版を出すのが、今後の幸福の科学の活動の方向でもあろうから一緒に考えてゆきませんか、という問いかけでもあったのです。
正法を簡単に定義するなら、「神から流れ出した真実の教え」ということになるでしょうが、問題は、百家争鳴、あるいは百鬼夜行の感のある日本の宗教界、思想界の教えの中から、どういった基準でもって日持上人が言われるような「ホンモノとニセモノ」を見分けるかということであろうと思います。
この点に関して、近刊予定の「内村鑑三霊示集」の中で、内村氏は、正しい教え、正しい宗教かどうかを判断する基準を三つ挙げておられます。
第1点は、まず心の教えがあるかどうか。人間の人生を良くするような指導原理があるかどうか。換言すれば、単なる現象や、霊的な興味、好奇心にだけ訴えかけるような現世利益中心の教えかどうか。
第2点は、その教えを信じている人達が社会的に不適応にならずに立派になっているかどうか。人格的に向上しているかどうか。(イエスの方舟事件、真理の友教会事件など参照)
第3点は、やたら広げよう、広げようとして、嫌がる者を無理矢理引きずり込むような宗教、あるいは、正しいものはこれ一つとして、他宗は全て間違っているとして攻撃ばかりしている教えかどうか。強制したり、これ以外に救われる道がない、そのままでは不幸になるぞと脅す教えでないかどうか。
以上の3点が内村氏の世界から見た、正法か邪法かを判断する基準だそうです。これで全てを言い尽くしてはいないでしょうが、内村氏の意図される、①心の教えの存在②人格向上の実績③狂信的でなく寛容さが存在、三つの物差しをあててみると、数多くの新興宗教の正邪は、9割以上の正確さで判断できそうです。会員の皆さんも各自で一つ、考えてみて下さい。
幸福の科学も一応、この「正法判断の三原則」にのっとって活動しております。
まず、霊的現象は、真実の世界の存在証明として限定した範囲で公開しているが、霊言集などの刊行目的の中心は心の教えにある。
第2に、素晴らしい人物を出現させ、神理を悟った人を創り出すことこそ最高の伝道であるとして、神理の探究、学習に重点を置いている。
第3に、本当に正しい教え、良い教えは、強制や勧誘をしなくても人々が集まってくるものだとの観点から、入会試験制度をとり、入会は難しくて不自由、脱会は自由。どの教え(宗団)を神理に合致していると判断するかは会員各自の良心に任せて、他宗派、他団体に属していても、神理を真剣に求めており、人格的に立派な方であれば会員になることを認める。
以上の三つの方針を打ち出しているのです。特に第3番目の入会試験は、入会前に霊言集十冊の読破を義務付け、その感想を書いた方の半分以上を、6か月待機後、再試験、または、不合格と判定しているのですから、日本中探しても、これだけの入会条件の厳しい神理の団体はなかろうと思います。
この方針は、幸福の科学がいわゆる「宗教」ではないことを意味し、他の日本の宗教諸派を暗黙のうちに批判しているのです。やがて幸福の科学の存在が世の中に知られてゆくにつれて、「客引き」行為をしている他団体が、恥ずかしくなり、反省するようになることを私は祈っているのです。これを誰かがやらない限り、日本人の宗教アレルギーは決してなくならないのです。
(月刊「幸福の科学」87年4月 創刊号)
「霊言」なるものの信憑性はともかく、判断基準、活動指針として示された内容自体は決して破廉恥なものではないと思います。
とかく「霊言」というものが目を引くので、いわゆる「霊好き」な人間が集まったものかと思われがちですが、そういた人はむしろ少数派でした。
当時はシャーリー・マクレーンの「アウト・オン・ア・リム」が世界的ベストセラーになるなど、精神世界へのハードルが低くなり、その扉がそこかしこに存在するような風潮の中にあって、この団体に入会していった者たちというのは、既成の宗教や哲学への批判から、逆に上記に書かれているような理念に新しい何かを期待し、あるいは共感するような気持ちで歩を進めていっただけのことです。
既成の宗教や哲学への批判と言っても、実際のところその理解は漠然としたもので、無知を自覚せず、理想主義的なあまり軽率であったことは否めません。
けれども、そう特別な趣向の人間が集まったわけではなかったのです。
今こうしてご覧頂くと、皮肉と言うか、ひどい冗談です。
自ら掲げた正法の定義に、ことごとく反するのが他ならぬ自分自身の教団なのですから。
さして高すぎる理想ではないと思いますが、その口先だけの化けの皮が剥がれ、言行不一致に陥っていくのに時間はかかりませんでした。
あからさま過ぎる変化に戸惑い、この時点で去っていた人も少なくありません。
しかし一方で、元々はこうしたことを希求していながら、矛盾した状況に自己を同調させていこうとする人々が現れてきます。
こうした認知的不協和に直面する段階から、潜在していたカルトの要素が働きを始めます。
主体性を失って、思考や感情に前後の連続性がなくなる人格の愚鈍化への背後には、マインドコントロールの存在があります。
カルト問題の本質の把握も、その団体への批判も、この点をきちんと踏まえなければ、あまり意味がありません。
よく聞かれることです。
イタコ霊言、ちんけなコスプレなどのインパクトがよほど強いのでしょう。
最近もある法律家の方と色々とお話しした後、まったく不思議といった感じに同様の質問をされました。
「あんな・こんな」という念頭には、教祖の大川の奇行や言動があることは容易に想像できます。
それが世間からの「カルト認定」であり、それ自体は正しい評価と言えます。ただし、逆に「そんなの」で入会した人などは殆どいないのです。
表面的に顕著な如何わしさに目を奪われることが、カルト問題の根本的理解を妨げてもいる側面もあるようです。
事の本質を把握するためには、入会した動機と、辞められないでいる状況とは分けて考える必要があります。
以下は、月刊誌の創刊号の表紙です。中身はワープロ作成ですが、手作り感満載の冊子です。
この中に「正法の定義」という大川の一文があります。
当初は宗教法人ではなく、宗教化にも否定的な言語的事実もあったくらいですが、団体発足当時、大川がどんなことを語っていたのか、その部分を引用してみましょう。
(以下の文章は、当時の会内研修会での課題論文への総評として書かれたものです)

さて3番目の問題としての「正法の定義」ですが、これに手こずった方も数多くいたようです。私の本心は、皆様がなぜ数ある教えの中から幸福の科学を選んだのか、その判断の基準となる考えをきいてみたかったし、またこの「正法の定義」の決定版を出すのが、今後の幸福の科学の活動の方向でもあろうから一緒に考えてゆきませんか、という問いかけでもあったのです。
正法を簡単に定義するなら、「神から流れ出した真実の教え」ということになるでしょうが、問題は、百家争鳴、あるいは百鬼夜行の感のある日本の宗教界、思想界の教えの中から、どういった基準でもって日持上人が言われるような「ホンモノとニセモノ」を見分けるかということであろうと思います。
この点に関して、近刊予定の「内村鑑三霊示集」の中で、内村氏は、正しい教え、正しい宗教かどうかを判断する基準を三つ挙げておられます。
第1点は、まず心の教えがあるかどうか。人間の人生を良くするような指導原理があるかどうか。換言すれば、単なる現象や、霊的な興味、好奇心にだけ訴えかけるような現世利益中心の教えかどうか。
第2点は、その教えを信じている人達が社会的に不適応にならずに立派になっているかどうか。人格的に向上しているかどうか。(イエスの方舟事件、真理の友教会事件など参照)
第3点は、やたら広げよう、広げようとして、嫌がる者を無理矢理引きずり込むような宗教、あるいは、正しいものはこれ一つとして、他宗は全て間違っているとして攻撃ばかりしている教えかどうか。強制したり、これ以外に救われる道がない、そのままでは不幸になるぞと脅す教えでないかどうか。
以上の3点が内村氏の世界から見た、正法か邪法かを判断する基準だそうです。これで全てを言い尽くしてはいないでしょうが、内村氏の意図される、①心の教えの存在②人格向上の実績③狂信的でなく寛容さが存在、三つの物差しをあててみると、数多くの新興宗教の正邪は、9割以上の正確さで判断できそうです。会員の皆さんも各自で一つ、考えてみて下さい。
幸福の科学も一応、この「正法判断の三原則」にのっとって活動しております。
まず、霊的現象は、真実の世界の存在証明として限定した範囲で公開しているが、霊言集などの刊行目的の中心は心の教えにある。
第2に、素晴らしい人物を出現させ、神理を悟った人を創り出すことこそ最高の伝道であるとして、神理の探究、学習に重点を置いている。
第3に、本当に正しい教え、良い教えは、強制や勧誘をしなくても人々が集まってくるものだとの観点から、入会試験制度をとり、入会は難しくて不自由、脱会は自由。どの教え(宗団)を神理に合致していると判断するかは会員各自の良心に任せて、他宗派、他団体に属していても、神理を真剣に求めており、人格的に立派な方であれば会員になることを認める。
以上の三つの方針を打ち出しているのです。特に第3番目の入会試験は、入会前に霊言集十冊の読破を義務付け、その感想を書いた方の半分以上を、6か月待機後、再試験、または、不合格と判定しているのですから、日本中探しても、これだけの入会条件の厳しい神理の団体はなかろうと思います。
この方針は、幸福の科学がいわゆる「宗教」ではないことを意味し、他の日本の宗教諸派を暗黙のうちに批判しているのです。やがて幸福の科学の存在が世の中に知られてゆくにつれて、「客引き」行為をしている他団体が、恥ずかしくなり、反省するようになることを私は祈っているのです。これを誰かがやらない限り、日本人の宗教アレルギーは決してなくならないのです。
(月刊「幸福の科学」87年4月 創刊号)
「霊言」なるものの信憑性はともかく、判断基準、活動指針として示された内容自体は決して破廉恥なものではないと思います。
とかく「霊言」というものが目を引くので、いわゆる「霊好き」な人間が集まったものかと思われがちですが、そういた人はむしろ少数派でした。
当時はシャーリー・マクレーンの「アウト・オン・ア・リム」が世界的ベストセラーになるなど、精神世界へのハードルが低くなり、その扉がそこかしこに存在するような風潮の中にあって、この団体に入会していった者たちというのは、既成の宗教や哲学への批判から、逆に上記に書かれているような理念に新しい何かを期待し、あるいは共感するような気持ちで歩を進めていっただけのことです。
既成の宗教や哲学への批判と言っても、実際のところその理解は漠然としたもので、無知を自覚せず、理想主義的なあまり軽率であったことは否めません。
けれども、そう特別な趣向の人間が集まったわけではなかったのです。
今こうしてご覧頂くと、皮肉と言うか、ひどい冗談です。
自ら掲げた正法の定義に、ことごとく反するのが他ならぬ自分自身の教団なのですから。
さして高すぎる理想ではないと思いますが、その口先だけの化けの皮が剥がれ、言行不一致に陥っていくのに時間はかかりませんでした。
あからさま過ぎる変化に戸惑い、この時点で去っていた人も少なくありません。
しかし一方で、元々はこうしたことを希求していながら、矛盾した状況に自己を同調させていこうとする人々が現れてきます。
こうした認知的不協和に直面する段階から、潜在していたカルトの要素が働きを始めます。
主体性を失って、思考や感情に前後の連続性がなくなる人格の愚鈍化への背後には、マインドコントロールの存在があります。
カルト問題の本質の把握も、その団体への批判も、この点をきちんと踏まえなければ、あまり意味がありません。
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