fc2ブログ

大川隆法のモラハラ無間地獄

『モラル・ハラスメント』とは、倫理観や道徳意識(モラル)といった体裁を整えながら行われる嫌がらせ(ハラスメント)のことで、一般に「モラハラ」と略され、遅まきながら近年には日本でもこれに類する法整備が進むなど、悪質な人権侵害としてその概念が社会に浸透しつつあるところです。

この「モラハラ」の概念を最初に定義したのは、フランスの精神科医マリー=フランス・イルゴイエンヌ氏で、言葉や態度によって行われる精神的暴力は、外傷を残す肉体的な暴力と違って見えづらいため、社会的に長く潜在したまま後手にされがちであったものの、精神的な暴力も肉体的な暴力と同様に、或いは時としてそれ以上に人を傷つける犯罪であると厳しく指摘してます。

モラルハラスメント表紙

「モラル・ハラスメント―人を傷つけずにはいられない」
マリー=フランス イルゴイエンヌ氏著

さて、幸福の科学の大川隆法の長女で後継指名されていた大川咲也加について、大川は例によって“霊言”というかたちをとりながら、これまで天照大御神と定めていた咲也加の霊的出自を“妖怪おたふく”に改めました。この異変にともなって咲也加の情報が早々に教団ホームページから抹消されるなど、実質的にメインストリームから放逐された様子です。

大川隆法は前妻の恭子との間に、宏洋、咲也加、真輝、裕太、愛理沙(生年順)の5人の子を儲けていますが、まず2010年に、それまで美の女神アフロディーテであり文殊菩薩としていた妻の恭子の霊的出自を“裏切り者のユダ”と改めて追放(離婚)したのち、近年になって子らの霊的出自を次々と改めて(主に妖怪化)、放逐や閑職に追いやるなど粛清を続けてきました。そして、このたびの咲也加への措置により、とうとう誰もいなくなった次第です。

実子を “妖怪おたふく”と映す大川隆法の異次元な認知、小生のような常人の思いつくところではなく、いつものことながらそのセンスには感嘆するばかりです。ただし、個人的にはこの事態について驚くことはありませんでした。

“妖怪おたふく”騒動、血を分けた家族への無慈悲ぶりというお家騒動的な観点にスポットがあたりがちですが、幸福の科学では、実父の善川三朗(中川忠義)や実兄の富山誠(中川力)、また草創期から立宗に関わった多くの職員らが、大川によって次々と石もて追われてきた歴史があります。そうした経緯からして、今回の事態も幸福の科学的には通常営業であって、大川隆法こと中川隆の人生を貫く相変わらずのメンタリティの発露でしかないからです。

大川隆法の中に生じている心理のメカニズムについては、いわゆる「防衛機制」と解釈することで理解はできると思います。

防衛機制とは、現実的なものから潜在的なものに至るまで、心理的に受け入れがたい不安や危険(否認したい欲求や不快な欲求)に直面させられ、欲求不満を起こして適応できない状態に陥った時に発動される自我の再適応メカニズムとされ、程度によっては心の詐術として自他ともに不健全な状況に陥らせ、人を傷つけ苦しめる場合もあるものです。

そして、この防衛機制には様々な分類が研究されていますおり、今回の騒動にも象徴されている大川のワンパターンというのが、防衛機制のうちの極端な「理想化」と「脱価値化」と考えて良いでしょう。

決して防衛機制が直ちにモラハラにつながるということではありませんが、モラハラの加害者というのが、自我の欲求を達成するために外形的には道徳家のような体裁を保った妄想性の強い自己愛的な変質者というパーソナリティの者が多く、被害者との関係において加害者自身が心の安寧を得るために、こうした防衛機制が現に働いているということです。

モラハラの加害者たる自己愛的な変質者にとって、被害者(人間)は自分の自尊心(自己評価)や理想自我を高揚させ満たすため思い通りに使い倒す「道具」に過ぎず、自分の期待や欲求を満たしてくれる間は自分自身のために対象への過剰な理想化を行います。

しかし、いったんその理想像が崩れて、自分が望むものを与えられない孤独感や不安感を感じて耐えられなくなると、極端な二分法的思考パターンによって、今度は自分の自尊心や自己愛を傷つける不良品、危険物として激しい脱価値化(こき下ろし)に転ずるのです。

大川咲也加の霊的出自異動から排除に至る脱価値化の引き金になった事由は今のところ不明です。けれども、もしも仮に咲也加が大川に対して何らかの進言を行ったのがきっかけだとすれば、理想化し過ぎた対象から批判や嫌悪されそうになる(そうされていると思い込む)と、事前に価値下げしておけば自我の傷つきを予防できるという防衛機制が働いたということでしょう。

そのほか脱価値化にもいくつかパターンがあります。甚だ雑駁ではありますが、大川家を破壊していった状況に当てはめてみると、以下のような推察も成り立ちます。

恭子のケース:いくら蓋をしていても、理想化していた対象の嫌な側面からずっと目を背けていることはできない苦痛からの脱価値化。

宏洋のケース:己のコントロールが効かないという受け入れがたい切迫した現実からの脱価値化。

真輝のケース:理想化していた対象の若さや周囲からの人望の高さへの嫉妬を意識する苦痛からの脱価値化。

裕太のケース:素行の悪さから自分の評価が下がる恐怖からの脱価値化。

愛理沙のケース:思い通りに自分の欲求を満たしてくれない対象からの撤収としての脱価値化。


大宇宙の根本仏ともあろうものが、己の心理が生じさせる脱価値化の無限ループの中で、常に不安や恐れに苛まれたまま孤独や空虚感が癒されることがないなど、実に不幸なことです。

また、モラハラの加害者は、自分の方が真の被害者だと心底考えていて、罪悪感から自我を守るために被害者の考えや行動を巧みに支配して、被害者側に罪悪感を与えて「自分が至らないせいだ」「自分が悪かった」と思わせようとしますから、被害者が主体性を取り戻して自立し、それまでのコミュニケーションパターンがモラハラであったと気づくまでは、どんよりとした不幸の感覚の中で苦痛が延々と連鎖していくことになります。

かつて地上天国の実現を標榜した幸福の科学が生み出したのは、モラル・ハラスメントによる不幸のスパイラルという地獄絵図でした。

私はかねてから、極端な個人崇拝を求めるカルトの場合、教祖のパーソナリティは自己愛的な変質者であると想定され、モラハラの加害者と被害者の関係性が、教祖と信者の関係性に置き換えられていくものと考えてきました。

前述の精神科医イルゴイエンヌ氏は、自己愛的な変質者は人を惹きつけ支配下に置き価値観の基準をひっくり返すことができると語っています。カルト宗教とモラハラは親和性が強く、カルト宗教の内的世界で倫理観が破壊されやすい所以も、こうした点にあると言えるかも知れません。

大川隆法の実子最後の生き残りであった咲也加の粛清について、これが大川隆法のメンタリティであり、幸福の科学のカルト気質という観点から述べてきましたが、当然の帰結とするのには、そもそも根本的な理由があります。

なぜならそれは、理想化と脱価値化は常にセットであり、理想化の後には必ず脱価値化が訪れるものだからです。

したがって、たとえこの先に誰が大川の傍に立とうと、遅かれ早かれ必ず同じ道を辿ることになります。

それを回避する道はただひとつ。自分が脱価値化されるより前に大川に死んで居なくなってもらうしかありません。これから教団No.2に抜擢される方は、せいぜいそれを家族一丸となって毎日必死に祈りながら暮らすと良いでしょう。

最後に、咲也加も人の親になったのなら、お腹を痛めて生んだ我が子らに同じ思いを絶対にさせてはいけない。長年そこしか知らない暮らしを離れることは決して容易な道ではないだろうけれども、これを本当の意味で好機と自覚して、夫婦力を合わせて娑婆で静かに生き直して欲しいと願っています。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

承認待ちコメント

このコメントは管理者の承認待ちです
プロフィール

土矢浩士(ハンドルネーム:アルゴラブ)

Author:土矢浩士(ハンドルネーム:アルゴラブ)
セクトの犠牲者である家族と個人を支えるネットワーク
「RSFI MAIKA」代表

日本脱カルト協会
「JSCPR」会員

当ブログへようこそ。
「幸福の科学」の問題を中心に、セクトについて考えていきます。

ご相談等の場合は、リンク先頭の「RSFI MAIKA公式ホームページ」のコンタクトよりご連絡ください。

また、当ブログのコメント欄は非公開設定を選択することができます。悪質な荒らし行為等でない限りは決して公開されませんのでご安心ください。

最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR