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「過去」はBANできない

脱会者と教祖という真逆の立場でも、「記憶に苦しめられる」というのは両者に共通したものなのだと思います。

脱会被害者の方の様々なお話に触れると、もしも魔法のようにその記憶を消してあげることができたら良いのにと、時折そんな気持ちにさせられることがあります。しかしながら、そんなことはできる訳もなく、また、たぶんそれは正しいことじゃないと分かっていているから、皆がそれを黙って背負って今を生きているのだと思います。

私としては、どんなに苦い記憶も既に自分の一部。逃げたり蓋をしたりせず、静かにありのまま受け入れて流していく。自分の覚悟ひとつで、それもまた自分が他者や社会と向き合っていくための力に変えられると励ますのみですが、少なくとも、自分史の修正をしようとしてジタバタしている脱会者など殆ど知りません。

一方の大川は、終わりなき誇大妄想を重ねて、いつまで経っても本当の自己を受け入れることができないまま、無謀な過去の書き換えに追われる日々を続けています。

今の境遇が外形的にいかに辛くとも、脱会を決断できたという時点で精神的には確実に教祖を凌駕していると、私が脱会者を称える理由がここにあります。

徳島新町川橋詰 井上ビル (元聖地四国本部)
元聖地四国本部/徳島県徳島市新町橋1丁目5 井上ビル

こちらは、宗教法人格認可のためだけに取得した「聖務統括本部」ができるまでの間、かつての教団内における拠点順位第2位の位置づけであった「元聖地四国本部(元徳島支部)」が入っていた物件です。この井上ビルの3階が教団事務所でしたが、現在はテナントが変わり、教団事務所が入居していた頃の痕跡は全く残っていません。

聖地四国本部(91年)

当時この3階の窓ガラスには、「郷土徳島が生んだベストセラー作家 大川隆法著作シリーズ」「太陽の法」と、カッティングシートが貼り付けられていました。徳島に居た頃この建物の外観を撮影しておいたのですが、どこに仕舞ったか、なかなかその写真が出てこないので、その代わりに、とりあえず内部の様子をご覧に入れます。

元徳島支部(元聖地四国本部)1

徳島支部(元聖地四国本部)2

L字型のフロアーで、ガラスの引き戸を入って直ぐに事務所スペースで、奥に小さな水場があり、カーテンで仕切られたL字の奥が礼拝スペースです。

ちなみに、写真奥は徳島赴任当時の私。デスクトップPCは、幸福の科学の信者台帳である「ELIS」(エルカンターレインフォメーションシステム)の初期型で、月刊誌の郵送を業務委託のままにしていると、そこからマスコミに架空のバブル信者数が露呈してしまうからという動機で始められた「月刊誌ふれあい配布」に向けた準備中のひとコマです。

教団事務所になる以前このスペースには、大川の兄である中川力が運営していた学習塾がありました。「太陽塾」という名前で、中川家の家内制霊言は、当初は父の忠義(善川三朗)、長男の力(富山誠)、次男の隆(大川隆法)の3人で行われていましたが、家計が厳しいことと、何より長男の力が霊言事業に嫌気がさして離脱し、この「太陽塾」を始めた辺りから、忠義と隆の2人体制になっていった経緯があります。

しかしその「太陽塾」も、授業中の力が脳卒中のため、まさにここで倒れて半身不随の身になってしまったことで突然廃業に追い込まれてしまいます。そしてそれから暫くの時間を経て、ここが幸福の科学の四国の最初の拠点として利用されることとなったのです。

昭和60年頃の新町橋風景
とくしまデジタルアーカイブプロジェクト 徳島市の昔の写真

こちらはネット上で見つけた昭和60年頃の井上ビルの画像で、ちょうど「太陽塾」があった時期になります。写真の左に見える「第一勧業銀行」(現:みずほ銀行)は、1929(昭和4)年に竣工した、コリント式柱頭と半円アーチ窓を特徴とする古風な外観の店舗ですが、善川は毎月一度ここに訪れては、自身の口座から資金を引き出し、その足で近くの阿波銀行に向かって賃料の支払い手続きを行うのをルーティンとしていて、善川が脳梗塞で入院した際には、善川の指示で私が送金したこともありました。

この物件、「太陽塾」から幸福の科学の事務所として利用されるようになってもなお、賃貸契約者は中川忠義の名義のままだったのです。「太陽塾」開校中なら、父親が出資していたことから忠義名義であって当然でも、幸福の科学の事務所になってもなお名義が変わらなかった理由は、これはあくまで貸主と善川との個人的な信頼関係を前提としたもので、教団としての契約が拒まれていたためであることを、私は善川本人から説明を受けています。

しかしながら、大川はある法話の中で、この物件にまつわることについて以下のように語っていたようです。

「最後の名古屋支社時代の85年頃のこと、一年後に東京本社に戻った時点で、アメリカかドイツの駐在員になって、数年間日本に戻れなくなることは、ほぼ確実だったので、その時点では、退社して、独立できるだけの経済的基盤を、つくっておかなければならなかった」

「しかし、年初に御尊父と実兄がスタートした“失敗確実”の塾は、坂道を転げ落ちるがごとく、倒産への道をまっしぐらに進んでおり、御尊父からは、「銀行融資を受けたいので、商社の財務マンとして、連帯保証してくれ」と頼まれたが、それは、今後二十年間は会社を辞められなくなることを意味していた」

「しかし、実家の方では収入はなく、借金が着々と進行している状況でした。毎日毎日、累積赤字が、五、六十万円から百万円ぐらいずつ、どんどん積み重なっている状況だったので、もう“真っ青”でした」

「そして、「親子兄弟の縁を切るぞ」と脅されたので、しかたが無いと思い、「連帯保証人にはならないけれども、独立資金としてためていたお金の三分の一を出す」ということにしました」

「父や兄は、「そのお金は必ず返すから」と言いましたが、私のほうは、全然信じていなくて、「絶対に返ってくるはずのないお金であることは分かっているから、借用書などは要らない」と言いました」

「父や兄は、「そんなことはない。私達を信用しろ」と言っていましたが、私は、「絶対に返ってこないだろうから、寄付する。ただ、独立資金の全額を寄付したら、私はもはや独立できなくなるので、申し訳ないけれども、三分の一しか寄付できない」と言ったのです」

「独立して一年ぐらいは、所持金で食いつながなければいけないので、ためたお金の三分の二は、独立資金として残しておく必要があったのです。実際、1986年7月に会社を辞めてから、一年間は無収入でした。無職ではありませんが、浪人の様な状態です」

「とにかく、一年分の“兵糧”だけは何とか確保しておかなければなりませんでした。私は、「一年あれば、何とか歯車を回せる」という自信はあったので、「一年だけ、何とか持ちこたえなければいけない」という考えで、まさしく「背水の陣」を敷いたのです」

「したがって、「もし私が失敗したら、全滅になる」という状況でした。そうなった場合には、霊言集があるけれども、もしかしたら、悪魔が総がかりで攻撃してきていたのではないかと思ったかもしれません。それほどの破滅的な結果が来る可能性があったのです。そのような非常に苦しい時期でした」

教祖の自伝的映画という位置付けで2018年に公開された「さらば青春、されど青春。」は、上記の法話を踏襲した内容で、大川の自分史修正の自己愛全開な映画でした。それは「死人に口なし」の典型で、大川隆法というのは、たとえ肉親であろうがお構いなく、どうしても他者を辱めることなしには自分を高めることができない人間なのでしょう。

けれども、自分の黒歴史修正のつもりで満を持して制作した映画も、若き日の自分を演じた長男の宏洋が間もなく幸福の科学と絶縁したことで、結果的にさらなる黒歴史の上塗りになってしまいました。

大川が自ら、中川家という自身の黒歴史にスポットを当てれば、たまたま関係者の全てを見聞した私などは、これまで封印してきたことにスポットを当てる機会の到来を意味し、更にそれすらも黒歴史となったというオチで二度おいしく、大川隆法という男の愚かさを、つくづく実感させられるエピソードに仕上がったと思います。


ただ、中川家の黒歴史という部分では、上記の大川法話の他にも、当初は大川でなく長男の富山を中心に教団を興す予定だったというような説も流布されていて、時に見解を求められることがあるのですが、そのことについて私は基本的に否定的な立場です。

例えばその説の内容については、父や兄を辱めるという意味で、上記の大川法話との一貫性のあるものとして、出所が大川自身であろうことは否定するつもりはなく、従って、このことについて直接または間接的に聞いた者には、それが事実と信じる真実相当性は生じるだろうと思います。

ただし、誇大妄想の自己愛的な変質者が、己の利害のために語っている背景を度外視して無批判に採用して済む話ではなく、大川が“寝物語”としてそのように語ったという「事実」と、中川家の真実としての客観的「事実」とは、冷静に分けて考えるべきではないかと、私は思っています。

関係者の殆どが他界し、残る当事者が変質者とあっては、突き詰めたところで、どのみち最後は選択の問題になってしまうことは否めませんが、脱会者個々人が、自力で過去を総括するにあたって、できるだけ正確で客観的な判断材料を基にして頂きたいという動機から、今後も可能な限り私なりの根拠をご提供したいと思っています。

さて、話を元聖地四国本部の物件に戻して、初期の物件の少なからずが、記念として取得されたり維持されているのに対し、善川や富山ゆかりのこの物件が手放され、今や見向きもされないでいるのはやや不自然ですが、大川にとっては、クドクドと煙たい父親と、自分に劣等感を植え付けた目障りな兄を思い出させる因縁の物件として、記憶から消してしまいたいのは無理からぬことで、教団としても、自前の精舎を建立したから賃貸契約を解約したというところでしょうか。

けれども、この物件が、あくまで貸主と善川との個人的信頼関係を担保とした賃貸契約で、息子の大川や教団の社会的信用では借りられなかった経緯を考えると、BANされたのはこの物件なのではなく、むしろ幸福の科学と大川隆法の側と考える方が妥当でしょう。

初期の物件にまつわる話ひとつからも、過去を否認し都合の悪い事実を修正しようとして、新たな黒歴史を重ねて醜態を晒すという、大川隆法の短絡的なパターンがよく表れていると思います。

幸福の科学の歴史とは、結局この繰り返しです。しかし、どんなに覆い隠そうとしたところで、小さな事実の積み重ねをBANすることは決してできません。

ある意味で、脱会者と大川隆法との差は、「過去は変えられない。変えられるのは己が未来だけ。」と、自分で歩み始めたか、立ち止まったままかということかも知れません。

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土矢浩士(ハンドルネーム:アルゴラブ)

Author:土矢浩士(ハンドルネーム:アルゴラブ)
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