「宗教二世」問題 今後の課題

2021年2月9日(火)午後8時から放送されたNHKハートネットTV「“神様の子”と呼ばれて~宗教2世 迷いながら生きる~」について、上記は同放送を視聴後にMAIKAの公式として発信したものです。
せっかくの企画にやや水を差すような部分がありますが、文責はあくまで私で、これだけを言いっぱなしにするのも何だと思われるので、もう少し雑感を整理しておきたいと思います。
ちなみに、明日2月16日(火)午後1時5分から再放送があります。
【番組リンク】
NHKハートネットTV
さて、インタビューに応じられた方のお話は、それぞれ率直な訴えで、もとより宗派の違いなど関係なく、二世信者を取り巻く問題を考える上で聞き逃すことのできない貴重な証言として、大変意義のあるものでした。
でも、番組視聴後に抱いたモヤモヤした感じは、まず当事者の二世信者と、その現実を見守る私たちの間でのメディアの立ち位置が、今一つぼやけたままではないかという感覚があったからです。
番組中では、二世問題に対する虐待や人権侵害という観点も一応抑えられていました。しかしそれも、社会心理学者へのインタビューのパートにまとめられ、「脱カルト」という枠組みの中でコメントが求められたはずなのに、演出ではそういう提示はされていません。
当事者の二世信者たちが、SNSやオフミーティングによって繋がりを得ながら、「“神様の子”と呼ばれた宗教二世たち、ひとりの人間として自らの人生を自らの足で歩みだそうとしている」というまとめで、社会性を担うべきメディア自体からの明確な問題提起が発信されないまま、証言を淡々と右から左に提供し、さらっと綺麗に終わってしまった印象です。
番組として取り上げられたことが問題意識そのものという見方もあると思います。確かにその発露だと思いますが、メディア側に、この問題がこれまで蓋をされてきた背景への自覚があれば、最後のナレーションも、もう少しメディア自身の当事者性も含まったものになったのではないかと思われます。
二世信者の方にとっては、自分たちの境遇、その被害を訴えるのには、これまで生きてきた中での葛藤、苦痛、偏見、不利益など、もろもろのストレートな日常体験の過酷さだけで十分過ぎるのだから、カルト問題の背景とか構造などといった内容は、そもそもどうでも良いことだと思っています。
むしろ、もっと傾聴される機会に恵まれて、相互に共感が拡がり、正しく存在が認識されて、少しでも社会的に癒される状況を求めるだけで全然良いのだと、兼ねてより私も感じていました。
けれども、それで良いのは当事者の皆さんまでであって、問題を見守る我々は一緒に感動して満足している場合じゃなく、そしてメディアも議論のテーブルに上げたからには、はっきりと同じ側に立って頂かないといけないですよね、ということで注文も多くなるわけです。
今後の課題としては、「宗教二世」という定義、また二世信者の問題をカルト問題の枠組みの中で語ることの是非についての合意形成に向けた議論が必要になるかと思います。
これは個人的にも考え方の整理から言語化に時間を要することですが、とりあえず現時点での考えをとどめておこうとする時、幸福の科学の脱会二世の方々との出会いの中で気付かされたことのほか、伝統的な既成宗教の二世の方からの話が、私の出発点になります。
ある方の親の通う既成宗教の教会は、いわゆるカルト団体ではありませんでした。その方自身もそうした認識ではありました。しかし、その方が訴える親子間の問題は、傍目からは「厳格」と評されていた親の信仰態度をゆえんとしたもので、私からしてみれば「偏屈」「神経質」「独善」としか受け取れない状況で、単なる信仰継承の問題とは別の次元の、二世信者問題そのものでした。
そうした事例は決して限られたものではないようで、同様な状況に置かれた人の中には、「カルト二世」と括られると自分が取り残された感じになるという訴えに会ったこともあります。
そういった意味合いから、私自身は「宗教二世」という表現は必ずしも不適切ではなく、「カルト二世」でなければならないとは考えていません。
但し、「宗教二世」という概念を雑駁なまま一人歩きさせてしまうと、問題の矮小化を招くミスリードに繋がりかねないことから、定義はしっかりと定着させなければならないと思います。
カルトの問題は明白な人権侵害で、社会の体力も損なう深刻な課題であると思うのですが、日本では重大事件でも起こらない限り、ほとんど継続的に扱われることがありません。個人の問題、家庭の問題、自己責任の問題という、要するに他人事的な見方で、なかなか当事者性を担えないまま、社会的に見捨てられがちな状況が続いてきています。
そんな中、カルト問題自体は扱いづらいが、二世信者の問題は、カルト問題における自己責任論の部分などを回避して、ストレートに被害を訴えやすい部分があります。
二世信者の件について、カルト問題の側面が主張されなくても、先に述べた通り、当事者にとっては、カルト問題うんぬん以前に信者の親を機序とした個人的体験が存在しているため、背景のカルト問題そのものへの問題意識に至る必要性が生じず、関心が低めな傾向から、当事者目線としてはそれで当然のことと考えられます。
また、いささか考えすぎかも知れませんが、カルト問題がとかく敬遠されてきた経緯から、二世信者の存在がカルト問題という枠組みの中で語られると、却ってそれがボトルネックになってしまうのではないかという危惧に繋がって、強いて「カルト」という表示を避けたい心情も働くのではないかという思いもあります。
ハートネットTVでも、番組冒頭で「宗教二世、自らの意志ではなく、親が信仰する宗教に入信し、子供時代を過ごした人たち」、「彼らの中には、親に強いられた教義に縛られ、自分を押し殺しながら、結婚や進学に制約を受けたという人もいる」と紹介されたり、全編の描写を通じて微妙な配慮を感じました。
しかしながら、二世信者がそうした境遇に置かれたのは、直接的には保護者との関係性に帰責するのは間違いないことではありますが、けれども、その親を変質させた歪んだ教義の本質や、親が子を囲い込む環境の正体といった、問題の核心に立ち入らないようでは、上っ面を引っ掻くばかりの状況から離脱できないままになってしまうだろうと考えます。
昔からあった二世信者という存在が見落とされ、あるいは見て見ぬふりされてきたのは、SNS等のツールの不足が理由でなく、端的に言って、これがカルト問題に直結していくからで、個人や家族の問題として、人が歪な信仰に陥る問題を敬遠して蓋をし、結果的に野放しにしている構造があるからこそ、妥協を許さない部分かと思います。
私は、親の信仰に伝統宗教も新興宗教も別なく、その態度がフランスがセクト対策のために定義したような操作的診断手法に照らして、カルト性の指標が高い状況が、いわゆる「宗教二世」問題に他ならないという考え方です。
そして、例えば宗門の跡継ぎとか、信仰やお墓の継承などといった性質の事柄とは(勿論それぞれに葛藤があろうことは理解していますが)、あえて「宗教二世」として定義しようとするものとは、次元の異なる問題として一線を画します。
また、「宗教二世」と言っても、早い段階から親の信仰に違和感や嫌悪感を抱き、長い葛藤のなかに置かれ続けてきたケースもあれば、親との関係は良好で軋轢はなく、自己選択として信仰しているつもりでいたものが、やがて社会との接点の広がりにともなって、自分が置かれた境遇の歪さに気付かされて初めて葛藤が生じるケースなど様々ですが、さらに、気づきの機会が訪れないまま、社会的に進退窮まった状況に置かれてしまっているケースも、慎重さを要しますが、より積極的な概念として、私は「宗教二世」の当事者だと考えています。
私なりにはここを原点にして、様々な方の知見を吸収させて頂きながら、考え方の修正や熟成を図って行きたいと思っています。
2/16以降追記
記事の後半、下記の部分について、大事な部分を数行でまとめようとして、難解な言い回しになってしまったきらいがあったようです。ご質問を頂きましたので補足に追記します。
>親の信仰に伝統宗教も新興宗教も別なく、その態度が(中略)カルト性の指標が高い状況が、いわゆる「宗教二世」問題に他ならないという考え方です。
「カルト」という言葉は今日では一般的に定着しているものの、まだまだ乱暴なレッテル貼りに使われている場合も散見されており、根本的にカルトを定義することが困難であることを示すところでしょう。
フランスがカルト対策にあたり信教の自由との狭間でカルトの定義という壁にぶつかった時、「“宗教”を問うのでなく、その宗教運動による“外形的な行為の弊害(世俗的な帰結)”を問う」という考え方を突破口としました。これはカルト問題に関わるうえで基本的な論理だと思います。
「外形的な行為の弊害」は、外的な危険性をはらむ組織の実態を丁寧に整理し、傾向を洗い出して列挙するという操作的な定義によって、10項目の危険性の判断基準に結実しました。私はこうしたアプローチが宗教二世の問題の取り掛かりでも有効ではないかと思っています。
宗教二世の定義にあたっては、漠然としたままでは仕事にならないし、括り過ぎれば角が立ちます。従って、名称含め枠にはめずに広くカバーしながら、親の「信条」を問わず「行為」を追求するという態度で、実質的にカルト問題の枠組みから外さない。というのが現時点の私なりの考え(提案)です。
親から子への人権侵害や虐待が、親の「信仰」を発生機序としたもので、更にそこに親の信仰する「宗教」(または思想)の組織性や特殊性の影響があると見做される場合に、家庭内における親の宗教活動が、子供を私物化して存在不安に陥らせ自己決定権を奪い、結果的に個々の心理面は無論のこと、社会的にも生きずらい状況に追い込むことが、果たして親自身の言動・行為によるものなのか、あるいは信者としての言動・行為なのか、1人の人間には様々な属性があって簡単に線引きはできませんが、要はその部分にポイントがあるのではないかと思います。
議論の方向性としては、声を上げ始めた二世の皆さん個々の体験談を活かし、つぶさに事例検討を重ねて虐待や人権侵害の要素を煎じ詰めてパターン化し分類する作業によって問題点を可視化します。そして罰よりも当事者支援を優先に、現行法で補えない法制化を目指す場合も、まずは地方自治のレベルからかなというイメージです。
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