大川隆法メランコリック本音トークVol.1
「1994年3月1日、先生突然のご来社」という一文から始まるA4版29ページにわたる大川隆法の談話文書があります。
これは94年3月1日から3日にかけて、当時の紀尾井町総合本部で少数の職員を前に立て続けに行われたもので、大川が本部に来たときの会話は、日頃から秘書が聞き逃さないようにしていましたが、このような突然の来社というのは何かあるということで、より細密に一言一句まで拾われて記録されています。
この当時は、関谷晧元著「虚業教団」(現代書林)が出版されてしばらく経過しているものの、教団として組織的な反論ができていない段階で、大川自身がいてもたってもいられなくなって出てきた状況のベラベラトークになっています。
大川の特徴として、何度も同じ話がループする傾向があります。特に意識が固着して気になって仕方ない件で顕著に表れおり、大川のメンタリティーが良く分かる部分だと思います。
この文書は、『幸福の科学』撲滅対策本部★したらば営業所・資料集に、2011年10月1日に「大川隆法の本心」(No.1~No.33)というタイトルで掲載したもので、全体のボリュームがあるので、内容を再確認しつつ少しずつ転載していきます。
なお、文中では大川隆法が脱会者に対して極めて醜い罵詈雑言を並べ立てていますが、言うまでもなくこれらはあくまで大川の自己都合から発した根拠なき誹謗中傷であって、決して各人の真実ではないことをあらかじめ明記しておきます。

『 大 川 隆 法 の 本 心 』No.1
【セミナーの前座】
日曜の行事のとき、 10分間、開会の挨拶と前座をかねて、事務局長に話してもらおう。会としてやっている雰囲気にした方がいい。言って欲しいことは2点ある。
①あとの話のとっかかりになること。
結婚して六年、その結果会が非常に堅固になって発展した。総合本部としての見解を述べる。自分で言うと反発される恐れがあるので。
②主宰補佐が何をしているか、会員も知らないし、虚業教団でも奥さんだけやっていて給料貰っていると言っているから、これも自分で「私は仕事をしています」と言うのは不本意。だから事務局長から、主宰補佐は何をされているかを話す。
あと、主宰先生が結婚されたおかげで、ご利益で結婚できた方が多い。他にも幸福な現象が出て、結婚しやすくなった。あとの話ができるだけ被害を被らないように。
原は虚言癖があると言ってよい。初期、僕らの結婚を邪魔しようと画策した不信心者だった。
③仕事ができなかった。
④嫉妬が大きかった。
当時、自分のヨガ教室のゴシップばかりだった。当会の見解で悪人と断定する。宗教的に切り落とさないと納得しない。この世的に言っても納得しない。ルシファーが入った人が撹乱したというのが事実。
『 大 川 隆 法 の 本 心 』No.2
【悪魔の入り方】
ルシファーの入りかたは、 88年2月に土田に。 高橋守と組んでやろうとしたときに、危ないと思って僕が二人の分断に入った。会議に出て、対決して潰した。高橋守も常時入られていたが、とりあえず土田を潰した。次はルシファーが原に行って、関谷は89年からずっと入っていた。
89年末から90年3月まで、ルシファーは細川さんに入った。ルシファーに狙われて残ったのは細川一人。とりあえず四国へ行ってもらって、今は抜けている。
次ルシファーが編集に来て、伊澤と根本に入った。それで、編集に著作権があると言い出した。それで、 90年5月菊池さんを入れて、伊澤を出した。
9 0年の後半の拡張期の失敗は天狗指導による失敗。戦いをすることで意志統一をしていた。91年1 1月、竹内に覚が入った。日本海に出して、抜けるのに半年ぐらいかかった。今回も国際局長とって、覚に入られた。仏弟子は狙われる。高橋大亀も92年の1 2月から93年4月までは、覚がしょっ中入っていた。今は抜けている。覚筋は仕事のとこがやられた。ルはいま、 K社に事務所を移してやっている。
あと、 93年1 0月から覚にやられた。組織として管理部門を削っていたのでやられた。秘書も若い人で回していたが、 93年10月為久の結婚が時限爆弾になった。93年1 1月は秘書部門がガタガタになった。

とにかく女子の説得は難しい。
それで、管理部門を増強しないといけないということで、山本さんは削り専門だから出した。山本、壱岐に悪魔が入ったのではない。守護霊があばれていただけ。93年の1 1月一杯は覚が暴れていた。次はドームをつぶすのが主眼だった。だから大阪を捨てた。 K社も虚業教団をドームの前に出して、内は覚が来て、外はルが仕切っていた。先生の回りを薄くするのは極めて危険。運転手一人でもやられると(悪魔)来る。
その手薄なとき、あと、須呂を狂わせたら潰れる。須呂にやられたらいかんと思って、指導局に避難させた。おかげで、秘書は11、 12月さらに被害が大きくなった。弱くなったところ、心労しているところをやられる。
92年は4月ごろから、小澤さんがおかしくなった。小澤さんは仕事をしていなかったから、せめて先生の行事についていって、挨拶をさせようとしたが、 92年の4月から6月までは山本さんとの戦いになった。僕は結局、仕事の方をとった。
92年6月には小澤さんに悪霊が入っていた。理事長、理事制度はまつりあげに近かった。外に敵がいたので、成功したように見せないといけなかったから。だから半年して元に戻した。 92年春から財政的に均衡。だから正当に処遇できるようになった。そのあとは、財政一本で来た。財政に貢献するものをプラス、しないものをマイナスとして93年秋まで来た。固定費、管理無物を削ってがたがたになってきた。
高橋、細川、小澤まで、僕は叱らなかった。叱ると悪い情報を入れなくなるので。山本から叱りはじめた。関谷は89年ちょっと怒った。採用、資金、事務所開きが総務としてずさん。細川も悪かった。関谷は持たないと見ていたから。細川を残してやろうと思ったから、関谷を叱った。彼が事務局長になって、人がポロポロ落ちこぼれていった。やり方に調整能力が足りなかった。人間の感情のところが外れる。内、外ともにやられていた。
【Algorab注】
91年のフライデー事件も、このような「突然の来社」から始まりました。91年の大伝道の失敗とフライデー事件によるダメージから、92年~93年にかけてなんとか復調してきて、少しいい気になってきた矢先に、立宗の功労者で神託結婚までさせた元幹部職員の告発本によって実態を明かされたことで、いかに動揺していたかが窺えると思います。
「虚業教団」の中では、大川が会員の女性に目を付けて結婚したことが、大川の変質の要因のひとつという論調でしたが、それに対して大川自身が教団あげて補佐役の細君を擁護させようと指示していた事実は、前妻のきょう子を「裏切りのユダ」と価値下げし、あらん限りの罵りを浴びせて離婚のうえ追放した今日、大川隆法という小者の軽薄さ阿保臭さを端的に示すものでしょう。
この文書では、関谷氏と同じく立宗の立役者で脱会した原氏に対しても誹謗中傷が続いていきますが、大川がこの時「僕らの結婚を邪魔しようと画策した」と評している部分、仮に原氏が大川と恭子の結婚に批判的であったこと自体は事実であったとしても、それはむしろ当時から既に大川自身の認知が歪んでいて、周囲の意見を謙虚に聞き入れられなかったことが現在の失敗の原因ということとなり、因果応報どこまで行っても大川が俗っぽく愚かであることに変わりはありません。
このほか草創期の功労者で去っていった者に対しても、基本的に悪魔にやられたという形で自己批判の欠片もないのは、現在の様子と全く違いはありません。私はこうした方々数人と直接お話をして来ましたが、皆さん同様に、大川が言っている事とやっている事の違い、拡張路線とそのための排他性の増長、また拝金主義に苦言を呈して対立し、石もて追われた方ばかりでした。
これは94年3月1日から3日にかけて、当時の紀尾井町総合本部で少数の職員を前に立て続けに行われたもので、大川が本部に来たときの会話は、日頃から秘書が聞き逃さないようにしていましたが、このような突然の来社というのは何かあるということで、より細密に一言一句まで拾われて記録されています。
この当時は、関谷晧元著「虚業教団」(現代書林)が出版されてしばらく経過しているものの、教団として組織的な反論ができていない段階で、大川自身がいてもたってもいられなくなって出てきた状況のベラベラトークになっています。
大川の特徴として、何度も同じ話がループする傾向があります。特に意識が固着して気になって仕方ない件で顕著に表れおり、大川のメンタリティーが良く分かる部分だと思います。
この文書は、『幸福の科学』撲滅対策本部★したらば営業所・資料集に、2011年10月1日に「大川隆法の本心」(No.1~No.33)というタイトルで掲載したもので、全体のボリュームがあるので、内容を再確認しつつ少しずつ転載していきます。
なお、文中では大川隆法が脱会者に対して極めて醜い罵詈雑言を並べ立てていますが、言うまでもなくこれらはあくまで大川の自己都合から発した根拠なき誹謗中傷であって、決して各人の真実ではないことをあらかじめ明記しておきます。

『 大 川 隆 法 の 本 心 』No.1
【セミナーの前座】
日曜の行事のとき、 10分間、開会の挨拶と前座をかねて、事務局長に話してもらおう。会としてやっている雰囲気にした方がいい。言って欲しいことは2点ある。
①あとの話のとっかかりになること。
結婚して六年、その結果会が非常に堅固になって発展した。総合本部としての見解を述べる。自分で言うと反発される恐れがあるので。
②主宰補佐が何をしているか、会員も知らないし、虚業教団でも奥さんだけやっていて給料貰っていると言っているから、これも自分で「私は仕事をしています」と言うのは不本意。だから事務局長から、主宰補佐は何をされているかを話す。
あと、主宰先生が結婚されたおかげで、ご利益で結婚できた方が多い。他にも幸福な現象が出て、結婚しやすくなった。あとの話ができるだけ被害を被らないように。
原は虚言癖があると言ってよい。初期、僕らの結婚を邪魔しようと画策した不信心者だった。
③仕事ができなかった。
④嫉妬が大きかった。
当時、自分のヨガ教室のゴシップばかりだった。当会の見解で悪人と断定する。宗教的に切り落とさないと納得しない。この世的に言っても納得しない。ルシファーが入った人が撹乱したというのが事実。
『 大 川 隆 法 の 本 心 』No.2
【悪魔の入り方】
ルシファーの入りかたは、 88年2月に土田に。 高橋守と組んでやろうとしたときに、危ないと思って僕が二人の分断に入った。会議に出て、対決して潰した。高橋守も常時入られていたが、とりあえず土田を潰した。次はルシファーが原に行って、関谷は89年からずっと入っていた。
89年末から90年3月まで、ルシファーは細川さんに入った。ルシファーに狙われて残ったのは細川一人。とりあえず四国へ行ってもらって、今は抜けている。
次ルシファーが編集に来て、伊澤と根本に入った。それで、編集に著作権があると言い出した。それで、 90年5月菊池さんを入れて、伊澤を出した。
9 0年の後半の拡張期の失敗は天狗指導による失敗。戦いをすることで意志統一をしていた。91年1 1月、竹内に覚が入った。日本海に出して、抜けるのに半年ぐらいかかった。今回も国際局長とって、覚に入られた。仏弟子は狙われる。高橋大亀も92年の1 2月から93年4月までは、覚がしょっ中入っていた。今は抜けている。覚筋は仕事のとこがやられた。ルはいま、 K社に事務所を移してやっている。
あと、 93年1 0月から覚にやられた。組織として管理部門を削っていたのでやられた。秘書も若い人で回していたが、 93年10月為久の結婚が時限爆弾になった。93年1 1月は秘書部門がガタガタになった。

とにかく女子の説得は難しい。
それで、管理部門を増強しないといけないということで、山本さんは削り専門だから出した。山本、壱岐に悪魔が入ったのではない。守護霊があばれていただけ。93年の1 1月一杯は覚が暴れていた。次はドームをつぶすのが主眼だった。だから大阪を捨てた。 K社も虚業教団をドームの前に出して、内は覚が来て、外はルが仕切っていた。先生の回りを薄くするのは極めて危険。運転手一人でもやられると(悪魔)来る。
その手薄なとき、あと、須呂を狂わせたら潰れる。須呂にやられたらいかんと思って、指導局に避難させた。おかげで、秘書は11、 12月さらに被害が大きくなった。弱くなったところ、心労しているところをやられる。
92年は4月ごろから、小澤さんがおかしくなった。小澤さんは仕事をしていなかったから、せめて先生の行事についていって、挨拶をさせようとしたが、 92年の4月から6月までは山本さんとの戦いになった。僕は結局、仕事の方をとった。
92年6月には小澤さんに悪霊が入っていた。理事長、理事制度はまつりあげに近かった。外に敵がいたので、成功したように見せないといけなかったから。だから半年して元に戻した。 92年春から財政的に均衡。だから正当に処遇できるようになった。そのあとは、財政一本で来た。財政に貢献するものをプラス、しないものをマイナスとして93年秋まで来た。固定費、管理無物を削ってがたがたになってきた。
高橋、細川、小澤まで、僕は叱らなかった。叱ると悪い情報を入れなくなるので。山本から叱りはじめた。関谷は89年ちょっと怒った。採用、資金、事務所開きが総務としてずさん。細川も悪かった。関谷は持たないと見ていたから。細川を残してやろうと思ったから、関谷を叱った。彼が事務局長になって、人がポロポロ落ちこぼれていった。やり方に調整能力が足りなかった。人間の感情のところが外れる。内、外ともにやられていた。
【Algorab注】
91年のフライデー事件も、このような「突然の来社」から始まりました。91年の大伝道の失敗とフライデー事件によるダメージから、92年~93年にかけてなんとか復調してきて、少しいい気になってきた矢先に、立宗の功労者で神託結婚までさせた元幹部職員の告発本によって実態を明かされたことで、いかに動揺していたかが窺えると思います。
「虚業教団」の中では、大川が会員の女性に目を付けて結婚したことが、大川の変質の要因のひとつという論調でしたが、それに対して大川自身が教団あげて補佐役の細君を擁護させようと指示していた事実は、前妻のきょう子を「裏切りのユダ」と価値下げし、あらん限りの罵りを浴びせて離婚のうえ追放した今日、大川隆法という小者の軽薄さ阿保臭さを端的に示すものでしょう。
この文書では、関谷氏と同じく立宗の立役者で脱会した原氏に対しても誹謗中傷が続いていきますが、大川がこの時「僕らの結婚を邪魔しようと画策した」と評している部分、仮に原氏が大川と恭子の結婚に批判的であったこと自体は事実であったとしても、それはむしろ当時から既に大川自身の認知が歪んでいて、周囲の意見を謙虚に聞き入れられなかったことが現在の失敗の原因ということとなり、因果応報どこまで行っても大川が俗っぽく愚かであることに変わりはありません。
このほか草創期の功労者で去っていった者に対しても、基本的に悪魔にやられたという形で自己批判の欠片もないのは、現在の様子と全く違いはありません。私はこうした方々数人と直接お話をして来ましたが、皆さん同様に、大川が言っている事とやっている事の違い、拡張路線とそのための排他性の増長、また拝金主義に苦言を呈して対立し、石もて追われた方ばかりでした。
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