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幸福の科学学園の洗脳教育

学園体育祭資料Twitter

先日、幸福の科学学園の“教育”の実態を示す資料が公開されました。幸福の科学というカルトの問題が身の回りになければ、ただ気味悪がって笑っているだけで済むかも知れません。しかし、この社会にこのようなものが寄生し、現に未成年を惑わせ、その人生を台無しにしているのは、いかに局地的なことではあっても、決して笑いごとで済まされない、当事者ばかりの問題と言っていられないのが現実なのです。

問題の資料は、幸福の科学学園の体育祭で生徒が宣誓を行った原稿のようです。ここに転載させて頂き、記録に留めておきたいと思います。

学園体育祭資料1

赤・青・黄・白というグループ分けは、単に大会運営上の都合ばかりでなく、それぞれの掛け声の内容に特色があるように教義を反映したものです。幸福の科学は、スタートしてしばらくの間は、歴史上の宗教者や思想家、社会改革者だった高級霊による集団指導体制というのが思想体系の核で、それぞれの霊系を象徴する色がありました。

94年以降は大川を宇宙の根本仏と設定変更し、一神教となっていますが、各霊系は従者の立場になって、今のところ存続されてはいるようです。この中で黄団のボリュームが多いのは、釈迦の生まれ変わりと称する大川の霊系が黄色と定義されているからでしょう。

信仰の勝利 我ら光の戦士 ここにあり
使命が大きく ぶつかる壁も大きいけれど
どんな時でも 主の愛があった
その大いなる愛を受け止め
我らの聖なる使命を果たすことを ここに誓う
光はここにあり 信仰の名のもとに
勝利以外の結果はない
神のおおせのままに 戦え 神のままに
(幸福の科学学園「黄団」掛け声)


90年代に教祖の大川が大伝道の号令を発した際、動員を進めるためにこの「光の戦士」というフレーズが流行しました。当時本部職員で青年部の相談役であった俳優の南原宏治などが、「光の天使は元々の霊格が高くないとなれない、でも意志があれば光の戦士にはなれる」とアジったり、また大川も「釈迦の本体が行う救世運動という千載一遇の今世で「地涌の菩薩」になれる」とか、100人以上の伝道実績を挙げた者を「獅子奮迅菩薩」と銘打って表彰するなど、選民的な意識を高揚させ使命感で煽るようなことをして、それがやがて仕事や家庭と伝道のどちらが大事なのかという空気を形成するかたちとなり、自己の信仰を競うように仕事をやめて活動にのめり込む信者が続発した過去があります。

幸福の科学学園も、その卒業生の8割以上が、文科省から教育内容への疑義と大学審議会への問題行動から、設置を不認可とされて私塾として開学したHSUを進路としており、これこそが幸福の科学学園の“教育”の果実ということです。

90年代の若者たちの場合は、教祖や教団によるマインド・コントロールと同調圧力があったにせよ、各自が自己選択によって入信していた部分では軽率の誹りを免れませんが、幸福の科学学園の生徒の場合は、いくら当事者が自由意志を主張したところで、信者の親の家庭に生まれ、他に選択肢を与えられない内集団の環境下に育ち、無批判に幸福の科学の信仰を植え付けられたうえに、こうして学園の中でそれを強化されているという、まさに洗脳教育と言って差し支えない実態でしょう。

演武1
演武2
演武3

こちらの「演武言霊」というものも含め、「伝説」「正義」「エル・カンターレ文明」「救済」「誓い」「未来を担う責任」「主と同じ時代に生まれた」「不滅の真理」「幾転生生まれ変わっても」「常識の壁」「俺たちが知っている真実はその常識を打ち破る」「主とともにあるならば恐れるものなど何もない」など、幸福の科学信者にとってのパワーワードが散見されます。

これらの中の「主」や「エル・カンターレ」というのは大川隆法を指したものです。これらの宣誓などを、森友学園の園児たちが運動会で行っていた様子などを思い起こしながら読んでみていただければ、その異様さを実感して頂けるでしょう。

幸福の科学学園というのは、「グリフィンドール」とか「スリザリン」とか、「ハリー・ポッター」に登場するホグワーツ魔法魔術学校のような空想の世界を地で行く、大川隆法への個人崇拝を根幹にすえ永遠の中二病を量産しようとする、明らかにカルト宗教学校なのです。


アメリカの精神科医ロバート・J・リフトンなどのマインド・コントロールや洗脳の研究者によると、宗教的なグルが信者にもたらすものは、「死をものともしない不滅の感覚」、「無限の偉大な存在の一部であるという感覚」とされています。

こうしたグルと信者の側面について分かりやすい記述として、精神科医の岡田尊司氏の著書「マインド・コントロール」(文藝春秋)の中からいくつか引用します。

「傲慢なまでの自信と揺るぎない確信がカリスマ性の源泉であることは、多くの人が指摘していることであるが、グルは奇矯なまでの万能感を膨張させることによって、自信のなさと不安を抱えた人々に、強烈な印象と救済者としての期待を呼び起こす」

「そして、自分もまた特別でありたいと願いながら、しかし、何の確信も自信ももてない存在にとって、「真実」を手に入れたと語る存在に追従し、その弟子になることは、自分もまた特別な出来事に立ち合う特別な存在だという錯覚を生む」

「その錯覚のまやかし性は、グルが特別な存在だと信じることによって、自分も特別な存在だと証明されるという構造によって支えられている。つまり、自分が特別な存在でありたいという願望が、グルを信じ続けるしかないという状況に、その人を追い込んでいく」

「カルトに陥った人は、さまざまな理不尽さや矛盾を味わう。しかし、それを見て見ぬふりをする。理不尽さや矛盾と向き合い、グルが特別な聖者だという前提を疑うことは、自分自身の存在の支えを危うくすることだからだ。都合の良い事実だけを見て、グルを盲信し続けるしかない状況に陥っている」

こうしたカルト信者の心理特性も、一世と二世や三世の場合とでは、その前提となる本質的な要素に事情が異なる部分があろうかとは思います。

例えば、一世が抱く存在不安は、自己の葛藤に由来するもので、選民意識もその裏返しに過ぎないものが、二世・三世の場合であれば、その多くが親の盲信によって機能不全家庭に陥っている状況で、信者である親からの価値観の押し付けが存在不安を生じさせている側面があり、教団の世界観を根拠にした自己肯定感が選民意識を支えている構造と考えられること。

また、一世の場合は、マインド・コントロールによる躾の影響から脱会こそ難しいものの、自己の内面で折り合いを付けられさえすれば辞めても戻れる元の自分の領域が残っていることに対して、二世・三世の場合は、内集団の中で洗脳状態に置かれていても、多くは思想的な葛藤を経て受け入れた信仰でなく、教団を離れることへの脅迫観念も漠然として必ずしも根深いものではないことから、いったん外界に接するようになれば、そのギャップに目が覚めやすい傾向がある代わりに、親兄妹との関係や社会の無理解、そして身に付けられてしまったバックボーンをかなぐり捨てて、改めて自分の育て直しをしなければならないといった事が重い足枷になるという、真に脱会を妨げるのもの比重が、心理的な問題にあるか、現実的な問題によるのかという違いです。

ともあれ、入口と出口の扉に違いがあっても、信者として示す心理特性そのものは判で押したように同じです。

インド独立の指導者のひとりであるマハトマ・ガンディーは、社会的運動が歩む過程で直面する困難を、「無関心」、「嘲笑」、「非難」(抑圧)と洞察しました。これもひとつの真理と思います。但し、こうした認識が、カルトの中では己らを省みることなく自己正当化として働き、逆は必ずしも真ならずということが理解できなくなります。現実検討能力が阻害されて気付きが遅れ、次第に社会と乖離を深めて突っ走り、やがて生活破綻や社会不適合を起こして人生を破滅させてしまうのです。

教育基本法では、国及び地方公共団体が設置する公立学校を除き、特定の宗教教育や宗教活動そのものは禁止していません。ただしこれは、宗教に関する寛容の態度と宗教の社会生活における地位を尊重しようとする主旨に基づくもので、このような実態を決して野放しにしておいて良いことではありません。

現状の幸福の科学のような、絶対的な個人崇拝を前提に批判に対する極端な憎悪を助長する態度が、一条校の設置者として、また教育内容として妥当なのかどうか、社会通念に照らして厳しく議論され、客観的に査定し直される必要があるはずです。


【参考関連記事リンク】
ハーバービジネスオンライン2019.06.04
特定進路を強制、幼少期に入信させる……。見過ごされる「教育虐待」の実態とは


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土矢浩士(ハンドルネーム:アルゴラブ)

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