一瞬で終わった「永遠の会」
たいした資料ではありませんが、箸休め的に、今回はおそらく誰も知らないであろう幻の会内組織について、少しご紹介します。
1991年に大伝道の失敗やフライデー事件を起こしたりして、教団の財務が危機的状況になり、そのために大量の職員リストラが行われたことは、これまで何度も扱ってきましたが、その後ほんの一時、そうして退職していった職員を対象とした会内組織が設けられていました。その名を「永遠の会」と言います。

こちらがその「永遠の会」発足の様子を伝える第一回の会報です。
1992年7月11日のことで、大川の東京ドームでのお誕生日(届出日)会の翌日に、フライデー事件の際に都内の会員を緊急招集して、大川自らが「まず来週号を休刊に追い込もう」と下知した中野富士見町にあった教団施設(賃貸)で開かれ、退職者と現職を合わせて100名余りが集まったようです。
また、なんと参加した退職者ひとりひとりに感謝状の贈呈もあったようで、組織的な退職者への締め付けや、脱会者への嫌がらせが横行している最近の教団の状況を聞くにつけ、昔は良かったなどと言うつもりは毛頭ありませんが、実際この頃とはかなりの隔たりが生じたものだと思います。
この会報は、事務局総務部からの丁寧な近況伺いの手紙に同封されており、それは「永遠の会」が、教団が公式に設置した部門であることを示しています。
ただし、会報が発行されたのはこの一度きり。翌年6月に、夏の東京ドームの招待状が届いたものの、前年のような「永遠の会」の企画は実施せず、各地方本部毎に開催を丸投げするかたちとなり、そのまま有耶無耶に自然消滅して行きました。
幸福の科学には、こうした企画倒れ、自然消滅系の出来事がたくさんあります。それらの要因のひとつは、担当者がコロコロ変わって一貫性・連続性がないこと。
この「永遠の会」も、小澤と白木という元理事の相談役が就任していますが、こののち小澤氏は大川批判を行って打ち込みに合い脱会、その後キリスト教に改宗、また白木氏も会内の女性ミニ教祖に心酔して分派活動に参加、自堕落な私生活を送って行き方知れずにと、まったく「永遠」どころの話ではありませんでした。
そしてもうひとつの、より本質的な原因は、この企画に教祖の大川隆法も、当時の妻で補佐のきょう子の影もないことが示す通り、この企画は小澤氏ら職員の側からの提案を許可しただけで、教祖らにはそもそも何の関心もなかったから。大川の移り気で飽きっぽい性格が、教団全体の落ち着きのなさに投影されているということです。
けれども、逆に教祖自らが執着することは、いかなる状況でも現状把握がなされることなく、どんな犠牲を払わせても、あくまで止めることはしないでしょう。さしずめ教育・政治・映画事業などがそれです。
人類幸福化とか救世運動とか意気ったところで、「幸福の科学」というのは、実質的には大川隆法個人の私的幸福化運動に過ぎず、職員も信者も、そのための単なる道具でしかありません。

解像度の良くない写真ですが、懐かしい顔が見えて、それぞれの方々が今どうされているだろうかと感慨深いです。かつて人生の全てを賭けようとした、いまや化けの皮が剥がれアホカルト筆頭となりさらばえた教団の終焉を、どこで眺めていることでしょうか。
信じていた対象の誤りは別として、当時の個々の人間の資質自体は、みな良心的で温かい人柄の方ばかりだったことは確かでした。幸福の科学は、実に多くの人の財産や時間を奪って、関わった者の人生を狂わせてきましたが、同時に、きっと何某か成しえたはずの、そうした多くの善意や奉仕の精神の方向性を誤らせ無駄にしたことも、つくづく罪深いことだと思います。
1991年に大伝道の失敗やフライデー事件を起こしたりして、教団の財務が危機的状況になり、そのために大量の職員リストラが行われたことは、これまで何度も扱ってきましたが、その後ほんの一時、そうして退職していった職員を対象とした会内組織が設けられていました。その名を「永遠の会」と言います。

こちらがその「永遠の会」発足の様子を伝える第一回の会報です。
1992年7月11日のことで、大川の東京ドームでのお誕生日(届出日)会の翌日に、フライデー事件の際に都内の会員を緊急招集して、大川自らが「まず来週号を休刊に追い込もう」と下知した中野富士見町にあった教団施設(賃貸)で開かれ、退職者と現職を合わせて100名余りが集まったようです。
また、なんと参加した退職者ひとりひとりに感謝状の贈呈もあったようで、組織的な退職者への締め付けや、脱会者への嫌がらせが横行している最近の教団の状況を聞くにつけ、昔は良かったなどと言うつもりは毛頭ありませんが、実際この頃とはかなりの隔たりが生じたものだと思います。
この会報は、事務局総務部からの丁寧な近況伺いの手紙に同封されており、それは「永遠の会」が、教団が公式に設置した部門であることを示しています。
ただし、会報が発行されたのはこの一度きり。翌年6月に、夏の東京ドームの招待状が届いたものの、前年のような「永遠の会」の企画は実施せず、各地方本部毎に開催を丸投げするかたちとなり、そのまま有耶無耶に自然消滅して行きました。
幸福の科学には、こうした企画倒れ、自然消滅系の出来事がたくさんあります。それらの要因のひとつは、担当者がコロコロ変わって一貫性・連続性がないこと。
この「永遠の会」も、小澤と白木という元理事の相談役が就任していますが、こののち小澤氏は大川批判を行って打ち込みに合い脱会、その後キリスト教に改宗、また白木氏も会内の女性ミニ教祖に心酔して分派活動に参加、自堕落な私生活を送って行き方知れずにと、まったく「永遠」どころの話ではありませんでした。
そしてもうひとつの、より本質的な原因は、この企画に教祖の大川隆法も、当時の妻で補佐のきょう子の影もないことが示す通り、この企画は小澤氏ら職員の側からの提案を許可しただけで、教祖らにはそもそも何の関心もなかったから。大川の移り気で飽きっぽい性格が、教団全体の落ち着きのなさに投影されているということです。
けれども、逆に教祖自らが執着することは、いかなる状況でも現状把握がなされることなく、どんな犠牲を払わせても、あくまで止めることはしないでしょう。さしずめ教育・政治・映画事業などがそれです。
人類幸福化とか救世運動とか意気ったところで、「幸福の科学」というのは、実質的には大川隆法個人の私的幸福化運動に過ぎず、職員も信者も、そのための単なる道具でしかありません。

解像度の良くない写真ですが、懐かしい顔が見えて、それぞれの方々が今どうされているだろうかと感慨深いです。かつて人生の全てを賭けようとした、いまや化けの皮が剥がれアホカルト筆頭となりさらばえた教団の終焉を、どこで眺めていることでしょうか。
信じていた対象の誤りは別として、当時の個々の人間の資質自体は、みな良心的で温かい人柄の方ばかりだったことは確かでした。幸福の科学は、実に多くの人の財産や時間を奪って、関わった者の人生を狂わせてきましたが、同時に、きっと何某か成しえたはずの、そうした多くの善意や奉仕の精神の方向性を誤らせ無駄にしたことも、つくづく罪深いことだと思います。
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