胡乱な正義~「オウム」と「幸福」③
「地下鉄サリン事件」に極まるオウム真理教が起こした一連の事件に関連して、幸福の科学が自己顕示から繰り返してきた数々の主張が、単なるフェイクニュースに過ぎないことは、既出の資料の検証だけでも十分明らかなわけですが、ここでは当時の内部資料数点を通じて、さらに見ていくこととします。
幸福の科学のフェイクニュースでは、大川が生命の危険を顧みずオウム批判を続けていたとしていますが、95年2月28日に発生した目黒公証人役場事務長の仮谷さんの拉致事件の目撃者のひとりに教団職員がなるまでは、自らが仕掛けた創価学会への宗教戦争に血道をあげていて、実際のところオウムに対して殆ど関心を持っていなかったことは既に指摘しました。
そもそも、幸福の科学がこの「命がけ」というフェイクを強調し始めたのは、事件後オウム真理教関連の裁判が進む過程で、オウム元幹部の井上義浩死刑囚が、95年1月に教祖であった麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚から、95年2月の横浜アリーナでの講演会中に、大川隆法らを生物化学兵器で殺害するよう指示を受けていた等の供述をしていたことが明らかとなってからで、要するに後で取って付けたものです。
この時期に、大川自身はオウムに対してノーマークであったことは以下の資料から見ることができます。

95年2月21日文書
S対策として創価学会からの反撃を警戒しているが、オウムのオの字もない。

95年3月1日文書
「広報局の業務について」として、S対策に新聞投稿や怪文書ビラのタイトルなど具体的な指示が並ぶ。
上記の文書内では、創価からの嫌がらせがあった場合には、「仏罰があたるぞ」とか「火炎地獄に落ちるぞ」とか、得意の「エル・カンターレ・ファイト」などと言って強い調子で叱ることといった指示がなされていますが、教団施設周辺に出没していた不審者は、殺害機会を狙っていたオウムの殺人部隊であったのに、大川はそれを幸福の科学のネガキャンに怒った創価信者と完全に見誤って指示を出していたのです。サリンやVXガス、細菌兵器を用いて暗殺を繰り返していたオウムに対して、こんな有様では命がけで警戒していたと言えないでしょう。
オウムの大川への殺害計画は、講演会の前日に主宰用車両への工作というかたちで実行されたものの、井上死刑囚の供述通りであれば、信者を巻き込むことに迷いがあり、また生物化学兵器の取り扱いや工作に不慣れだったことで結果的に失敗に終わっています。しかし、これが兵器の取り扱いに精通し工作に慣れた他の者であったら、大川や職員たちの愚かなほどの脳天気なオキラクゴクラクぶりからして、間違いなく犠牲者が出てしまっていたことと思います。
普段は人一倍に臆病者のチキンであるくせに、当時の大川のこうした危機意識の欠如していた実態は、オウムが大川を狙っていたのは事実でも、大川に覚悟があったわけではないということの証です。
井上死刑囚の供述がなければ、オウムに殺害されかかっていた事実にすら気付いていなかかったほどの愚かなオメデタさにも関わらず、サリン攻撃含めオウム事件の全容を初めから見抜いていたなどという寝言は通じません。
それは以下の文書によっても明らかです。

95年3月13日文書
当時は主宰の大川を「7方」、補佐の恭子を「8方」と呼んでいた。
3月13日の時点で「たぶん」という認識です。
何より宇宙の根本仏の大霊能者のはずが、目撃者の職員やオウム退会歴のある信者の証言頼みの当て推量ときたもので、テレビや新聞、雑誌の報道を追う一般人とまるで大差ない状況であったものを、信者にはあたかも全てお見通しであったかのように吹聴するのですから、大川隆法と幸福の科学というのは根からのフェイカーで、教団にとって信者というのは、つくづくチョロい存在と看做されているのだと思います。
次回は、一連の投稿の締めくくりに、果たしてオウム事件に社会的貢献があったのかどうか、教祖と信者の関係という観点を絡めて見ていくこととします。
幸福の科学のフェイクニュースでは、大川が生命の危険を顧みずオウム批判を続けていたとしていますが、95年2月28日に発生した目黒公証人役場事務長の仮谷さんの拉致事件の目撃者のひとりに教団職員がなるまでは、自らが仕掛けた創価学会への宗教戦争に血道をあげていて、実際のところオウムに対して殆ど関心を持っていなかったことは既に指摘しました。
そもそも、幸福の科学がこの「命がけ」というフェイクを強調し始めたのは、事件後オウム真理教関連の裁判が進む過程で、オウム元幹部の井上義浩死刑囚が、95年1月に教祖であった麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚から、95年2月の横浜アリーナでの講演会中に、大川隆法らを生物化学兵器で殺害するよう指示を受けていた等の供述をしていたことが明らかとなってからで、要するに後で取って付けたものです。
この時期に、大川自身はオウムに対してノーマークであったことは以下の資料から見ることができます。

95年2月21日文書
S対策として創価学会からの反撃を警戒しているが、オウムのオの字もない。

95年3月1日文書
「広報局の業務について」として、S対策に新聞投稿や怪文書ビラのタイトルなど具体的な指示が並ぶ。
上記の文書内では、創価からの嫌がらせがあった場合には、「仏罰があたるぞ」とか「火炎地獄に落ちるぞ」とか、得意の「エル・カンターレ・ファイト」などと言って強い調子で叱ることといった指示がなされていますが、教団施設周辺に出没していた不審者は、殺害機会を狙っていたオウムの殺人部隊であったのに、大川はそれを幸福の科学のネガキャンに怒った創価信者と完全に見誤って指示を出していたのです。サリンやVXガス、細菌兵器を用いて暗殺を繰り返していたオウムに対して、こんな有様では命がけで警戒していたと言えないでしょう。
オウムの大川への殺害計画は、講演会の前日に主宰用車両への工作というかたちで実行されたものの、井上死刑囚の供述通りであれば、信者を巻き込むことに迷いがあり、また生物化学兵器の取り扱いや工作に不慣れだったことで結果的に失敗に終わっています。しかし、これが兵器の取り扱いに精通し工作に慣れた他の者であったら、大川や職員たちの愚かなほどの脳天気なオキラクゴクラクぶりからして、間違いなく犠牲者が出てしまっていたことと思います。
普段は人一倍に臆病者のチキンであるくせに、当時の大川のこうした危機意識の欠如していた実態は、オウムが大川を狙っていたのは事実でも、大川に覚悟があったわけではないということの証です。
井上死刑囚の供述がなければ、オウムに殺害されかかっていた事実にすら気付いていなかかったほどの愚かなオメデタさにも関わらず、サリン攻撃含めオウム事件の全容を初めから見抜いていたなどという寝言は通じません。
それは以下の文書によっても明らかです。

95年3月13日文書
当時は主宰の大川を「7方」、補佐の恭子を「8方」と呼んでいた。
3月13日の時点で「たぶん」という認識です。
何より宇宙の根本仏の大霊能者のはずが、目撃者の職員やオウム退会歴のある信者の証言頼みの当て推量ときたもので、テレビや新聞、雑誌の報道を追う一般人とまるで大差ない状況であったものを、信者にはあたかも全てお見通しであったかのように吹聴するのですから、大川隆法と幸福の科学というのは根からのフェイカーで、教団にとって信者というのは、つくづくチョロい存在と看做されているのだと思います。
次回は、一連の投稿の締めくくりに、果たしてオウム事件に社会的貢献があったのかどうか、教祖と信者の関係という観点を絡めて見ていくこととします。
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