カルトの“お気持ち”に屈せず言論表現を守れ
『「神様」のいる家で育ちました~宗教2世な私たち~』第5話を、幸福の科学の圧力に屈した集英社が公開終了にした問題について、集英社は当初「諸般の事情」とだけ説明していたものの、その後「第5話に関するお詫びとお知らせ」なる文書を掲載するとともに、更にあろうことかその他のシリーズ全てのエピソードまでも公開停止としてしまった。

『「神様」のいる家で育ちました~宗教2世な私たち~』第5話(2022.1.26 公開)に関するお詫びとお知らせ
そもそも宗教二世の問題は単なる毒親問題ではなく、親の信仰態度が子の“信じない自由”を含めた様々な人権侵害の機序となっていることが明白な社会問題なのであって、集英社の謝罪文はそうした前提となる構造を理解できていない全くの見当違いであり、出版社としての不見識を晒したみっともない態度に終始したままでいる。
また、このことについて他の媒体による後追いの記事もあったが、公式には作品の全てが閲覧できない状況にあったとはいえ、独自に可能な限りの丁寧な取材を行ったとは感じられないもので、問題の本質を考察しようともせず、ただ集英社の謝罪文に見られる様な“あたかも作者や主人公に帰責するような体裁”をオウムのように踏襲したものでしかなかった。

よみタイの連載「宗教2世」、公開終了 集英社「信仰心傷つけた」
毎日新聞社

ウェブ漫画1話の公開終了、特定の宗教や団体の信者傷つける表現「検討十分でなかった」集英社
日刊スポーツ
だいたい「信仰心傷つけた」のではなく、正確には「信仰心を傷つけられた」という“お気持ち”に動揺したというのが事実だろうが。
「信者の心が傷つけられた」というお題目は、幸福の科学が91年に講談社へ組織的な威力業務妨害を仕掛けた頃からのバカ一の主張で、「宗教上の人格権(宗教的人格権)」が侵害されたとする形で同社を相手取って争った裁判を「精神的公害訴訟」と銘打っている。
宗教的人格権という概念は幸福の科学が打ち出したものではなく、「自衛隊合祀訴訟」(1988年6月1日最高裁判決)の過程で提示され、一審においては「静謐な宗教的環境の中で信仰生活を送る権利」と捉え、プライバシー権に属するものとしたものの、最終的には法的利益としては認められずに同訴訟は結審した。
しかし、幸福の科学法務は、最高裁で否定された宗教的人格権を講談社への訴訟の大義名分に掲げた。実はこれには教団内でも異論が沸き起こり、当時私は総合本部にいたので、判例が出ている無理筋の主張を掲げることの愚を進言する複数の職員の姿と、その声に耳を傾けようとしないマヌケな管理職の様子を鮮明に記憶している。
結局のところ、幸福の科学の宗教的人格権の訴えについては悉く棄却された。戦犯はそのマヌケな管理職らなのだが、当事者が今なお法務の責任者であり続けているあたりが、この教団の主張がバカ一で全くアップデートできない所以であると言えるだろう。
言論表現に対して幸福の科学が仕掛けたスラップが退けられた際の判事のいくつかを整理すると、平穏な信仰生活を営む社会生活上・私生活上の人格的利益(宗教的人格権)があるとしても、記事や表現によって「心が傷つけられた」というのは、単に宗教的感情が侵害されたというのに過ぎず、宗教的行為や信仰生活まで侵害されたとは言えないということ。
さらに、そもそも教団や教祖への批判について、信者は直接の当事者ではなく、信者の精神的苦痛はあくまで間接的なものであって、そうした間接的に自己の信仰生活の平穏が害されたという宗教上の感情自体は法的利益として認められず、法的救済の対象にはなり得ないということ。
また、宗教批判の自由も保障されるべきものであり、事実に基づく正当な批判であることは言うまでもないことだが、宗教法人及びその主宰者等は、法による手厚い制度的保護の下に、人の魂の救済を図るという至上かつ崇高な活動に従事しているのであり、このような特別な立場にある団体ないしその責任者は、常に社会一般からその全存在について厳しい批判の対象とされるのは自明のことというべきであろうということ。
要は、とどのつまり単なる“お気持ち”ということだ。にも拘わらず、今回の集英社はカルト宗教相手にビビッて思考停止し、軽率に過剰な振舞いを行って、自社の社会的信用を損なうに留まらず、カルトと対峙する他社が今日まで毅然として守ってきた在り方まで毀損してしまっている。この責任は重い。
幸福の科学など、自分たちが標的にされれば被害者面して宗教的人格権を盾に無理筋な強弁で圧力をかけるくせに、己らの他宗排撃や他者批判の際にはその行為を「愛」と主張して自己正当化することを旨とする真性のカルトだ。
教団の論理に従えば、脱会者や世間が大川隆法や幸福の科学に批判を浴びせることなど、正しく「愛他行」以外の何ものでもないではないか。このように幸福の科学の主張など徹頭徹尾イイカゲンなものであり、そんな連中に真っ当な企業が振り回されてどうする。毅然とした態度であしらうだけで、まともに相手してやる必要すらないくらいだ。
今回のようにカルトの圧力に屈してしまう出版社が今なおあるような日本だから、カルトと対峙するにあたって”お気持ち“に妥協しないことがいかに重要であるのかということを、カルト対策先進国の取り組みからも改めて学ぶ必要があると思う。
カルト(セクト)対策の先進国である欧州の中にあって、フランスがその魁であることは広く知られているところだが、その制度設計のポイントは、信教の自由との狭間でカルトを定義することが根本的に困難であるという認識に立って、「“宗教”を問うのでなく、その宗教運動による“外形的な行為の弊害(世俗的な帰結)”を問う」という考え方を突破口とし、「外形的な行為の弊害」として10項目の危険性の判断基準を示した部分にある。
そして、その基準にそって宗教団体の諸状況を査定し国民に情報公開している。更に、それは10項目のうち1項目でも合致すれば粛々と公開を躊躇わない徹底ぶりで、“お気持ち”など入り込む隙は微塵も無い。
カルト対策の先進国では、カルトの問題は宗教の問題ではなく人権の問題という理念のもと、人に害を与え人を幸せにしないカルトによる基本的人権と自由への侵害から、個人と公共の利益を守るという熱く明確な目的があるから、カルト対策を実現するにあたって最も重要であることが、広く国民への情報提供であることに尽きるという一点でブレることがない。全く腰抜け出版社の態度とは雲泥の差がある。
菊池真理子さんの『「神様」のいる家で育ちました~宗教2世な私たち~』のシリーズは、そもそもカルト批判そのものとして構成されておらず、当事者たちのありのままの現実や対象喪失の主観的体験を淡々と表現したものに過ぎない。
さらに、宗教二世の経験は、現実として親の信仰と別にはありえないという問題の本質に立ち返れば、それが正しく「外形的な行為の弊害(世俗的な帰結)」そのものなのであって、そこに批判的要素があったとしても、それが社会的に許容された受忍限度を越えるものとは到底考えられないだろう。カルトの”お気持ち”など忖度する必要はなく、作品は何ら問題なく再掲されるべきだ。
作者や制作現場の真摯な思いは実際伝わっているし、何より各主人公それぞれのことを慮って、これでも辛うじて抑えてはいるつもりだが、本心はもっと腹立たしく思っている。
臆病な事なかれ主義の企業原理であんな不誠実で薄情な謝罪文を掲載させた集英社や、お粗末なコタツ記事で後追いした志の低い毎日新聞社は、先行取材者や大先輩の仕事に謙虚に学んで、今一度言論表現に携わる者としての矜持を示し直せ。
【参考記事】
日刊カルト新聞
集英社が“宗教2世”の体験談マンガ連載を全削除 きっかけは幸福の科学2世の体験談
横山真佳氏(元毎日新聞社特別編集委員)講演録
「ヨーロッパの〈セクト(カルト)宗教〉について」
※当ブログで横山真佳氏の著作について記したもの
「セクト対策の遠い夜明け」

『「神様」のいる家で育ちました~宗教2世な私たち~』第5話(2022.1.26 公開)に関するお詫びとお知らせ
そもそも宗教二世の問題は単なる毒親問題ではなく、親の信仰態度が子の“信じない自由”を含めた様々な人権侵害の機序となっていることが明白な社会問題なのであって、集英社の謝罪文はそうした前提となる構造を理解できていない全くの見当違いであり、出版社としての不見識を晒したみっともない態度に終始したままでいる。
また、このことについて他の媒体による後追いの記事もあったが、公式には作品の全てが閲覧できない状況にあったとはいえ、独自に可能な限りの丁寧な取材を行ったとは感じられないもので、問題の本質を考察しようともせず、ただ集英社の謝罪文に見られる様な“あたかも作者や主人公に帰責するような体裁”をオウムのように踏襲したものでしかなかった。

よみタイの連載「宗教2世」、公開終了 集英社「信仰心傷つけた」
毎日新聞社

ウェブ漫画1話の公開終了、特定の宗教や団体の信者傷つける表現「検討十分でなかった」集英社
日刊スポーツ
だいたい「信仰心傷つけた」のではなく、正確には「信仰心を傷つけられた」という“お気持ち”に動揺したというのが事実だろうが。
「信者の心が傷つけられた」というお題目は、幸福の科学が91年に講談社へ組織的な威力業務妨害を仕掛けた頃からのバカ一の主張で、「宗教上の人格権(宗教的人格権)」が侵害されたとする形で同社を相手取って争った裁判を「精神的公害訴訟」と銘打っている。
宗教的人格権という概念は幸福の科学が打ち出したものではなく、「自衛隊合祀訴訟」(1988年6月1日最高裁判決)の過程で提示され、一審においては「静謐な宗教的環境の中で信仰生活を送る権利」と捉え、プライバシー権に属するものとしたものの、最終的には法的利益としては認められずに同訴訟は結審した。
しかし、幸福の科学法務は、最高裁で否定された宗教的人格権を講談社への訴訟の大義名分に掲げた。実はこれには教団内でも異論が沸き起こり、当時私は総合本部にいたので、判例が出ている無理筋の主張を掲げることの愚を進言する複数の職員の姿と、その声に耳を傾けようとしないマヌケな管理職の様子を鮮明に記憶している。
結局のところ、幸福の科学の宗教的人格権の訴えについては悉く棄却された。戦犯はそのマヌケな管理職らなのだが、当事者が今なお法務の責任者であり続けているあたりが、この教団の主張がバカ一で全くアップデートできない所以であると言えるだろう。
言論表現に対して幸福の科学が仕掛けたスラップが退けられた際の判事のいくつかを整理すると、平穏な信仰生活を営む社会生活上・私生活上の人格的利益(宗教的人格権)があるとしても、記事や表現によって「心が傷つけられた」というのは、単に宗教的感情が侵害されたというのに過ぎず、宗教的行為や信仰生活まで侵害されたとは言えないということ。
さらに、そもそも教団や教祖への批判について、信者は直接の当事者ではなく、信者の精神的苦痛はあくまで間接的なものであって、そうした間接的に自己の信仰生活の平穏が害されたという宗教上の感情自体は法的利益として認められず、法的救済の対象にはなり得ないということ。
また、宗教批判の自由も保障されるべきものであり、事実に基づく正当な批判であることは言うまでもないことだが、宗教法人及びその主宰者等は、法による手厚い制度的保護の下に、人の魂の救済を図るという至上かつ崇高な活動に従事しているのであり、このような特別な立場にある団体ないしその責任者は、常に社会一般からその全存在について厳しい批判の対象とされるのは自明のことというべきであろうということ。
要は、とどのつまり単なる“お気持ち”ということだ。にも拘わらず、今回の集英社はカルト宗教相手にビビッて思考停止し、軽率に過剰な振舞いを行って、自社の社会的信用を損なうに留まらず、カルトと対峙する他社が今日まで毅然として守ってきた在り方まで毀損してしまっている。この責任は重い。
幸福の科学など、自分たちが標的にされれば被害者面して宗教的人格権を盾に無理筋な強弁で圧力をかけるくせに、己らの他宗排撃や他者批判の際にはその行為を「愛」と主張して自己正当化することを旨とする真性のカルトだ。
教団の論理に従えば、脱会者や世間が大川隆法や幸福の科学に批判を浴びせることなど、正しく「愛他行」以外の何ものでもないではないか。このように幸福の科学の主張など徹頭徹尾イイカゲンなものであり、そんな連中に真っ当な企業が振り回されてどうする。毅然とした態度であしらうだけで、まともに相手してやる必要すらないくらいだ。
今回のようにカルトの圧力に屈してしまう出版社が今なおあるような日本だから、カルトと対峙するにあたって”お気持ち“に妥協しないことがいかに重要であるのかということを、カルト対策先進国の取り組みからも改めて学ぶ必要があると思う。
カルト(セクト)対策の先進国である欧州の中にあって、フランスがその魁であることは広く知られているところだが、その制度設計のポイントは、信教の自由との狭間でカルトを定義することが根本的に困難であるという認識に立って、「“宗教”を問うのでなく、その宗教運動による“外形的な行為の弊害(世俗的な帰結)”を問う」という考え方を突破口とし、「外形的な行為の弊害」として10項目の危険性の判断基準を示した部分にある。
そして、その基準にそって宗教団体の諸状況を査定し国民に情報公開している。更に、それは10項目のうち1項目でも合致すれば粛々と公開を躊躇わない徹底ぶりで、“お気持ち”など入り込む隙は微塵も無い。
カルト対策の先進国では、カルトの問題は宗教の問題ではなく人権の問題という理念のもと、人に害を与え人を幸せにしないカルトによる基本的人権と自由への侵害から、個人と公共の利益を守るという熱く明確な目的があるから、カルト対策を実現するにあたって最も重要であることが、広く国民への情報提供であることに尽きるという一点でブレることがない。全く腰抜け出版社の態度とは雲泥の差がある。
菊池真理子さんの『「神様」のいる家で育ちました~宗教2世な私たち~』のシリーズは、そもそもカルト批判そのものとして構成されておらず、当事者たちのありのままの現実や対象喪失の主観的体験を淡々と表現したものに過ぎない。
さらに、宗教二世の経験は、現実として親の信仰と別にはありえないという問題の本質に立ち返れば、それが正しく「外形的な行為の弊害(世俗的な帰結)」そのものなのであって、そこに批判的要素があったとしても、それが社会的に許容された受忍限度を越えるものとは到底考えられないだろう。カルトの”お気持ち”など忖度する必要はなく、作品は何ら問題なく再掲されるべきだ。
作者や制作現場の真摯な思いは実際伝わっているし、何より各主人公それぞれのことを慮って、これでも辛うじて抑えてはいるつもりだが、本心はもっと腹立たしく思っている。
臆病な事なかれ主義の企業原理であんな不誠実で薄情な謝罪文を掲載させた集英社や、お粗末なコタツ記事で後追いした志の低い毎日新聞社は、先行取材者や大先輩の仕事に謙虚に学んで、今一度言論表現に携わる者としての矜持を示し直せ。
【参考記事】
日刊カルト新聞
集英社が“宗教2世”の体験談マンガ連載を全削除 きっかけは幸福の科学2世の体験談
横山真佳氏(元毎日新聞社特別編集委員)講演録
「ヨーロッパの〈セクト(カルト)宗教〉について」
※当ブログで横山真佳氏の著作について記したもの
「セクト対策の遠い夜明け」
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