“主の深いお考え・・・”とやら ②
1991年の大伝道失敗とフライデー事件によって始まった教団の危機を、1992年を通じて何とか持ち直し、講談社との裁判が継続するものの、内部的には落ち着きを取り戻しつつあった1993年の末の幸福の科学教団に、立宗の立役者と言って良い脱会者の関谷晧元(本名:関谷尚良)氏による「虚業教団」(現代書林)の出版という激震が走った。
フライデーほか、この頃すでに幸福の科学への批判記事は出尽くしていたが、一般のライターによる取材記事ではなく、直接の関係者による告発本として、会内に及ぼしたインパクトは比較にならないもので、支部の連絡網を通じて、決して手に取って読むことのないようにとの伝達がされたり、現場ではこのこと自体に触れないようにといった、微妙な空気が形成されていた。

「虚業教団」(現代書林)の帯。問題のポイントが分かる。
「虚業教団」では、関係者は全て仮名で掲載されているものの、関谷氏自身が体験した事実が克明に著されており、その生々しさは、大川隆法という人間の歪さや俗物さを示し、幸福の科学という新興宗教のカルト性を証明するのに余りあるものだった。
古参の会員で関谷氏のことを知らない者は少なく、実際この本の出版が、教団の状況に疑念をもって休眠化していた信者の、脱会への背中を押す結果となっている。
教団も堪らず、例によって裁判に訴えたものの、のちに幸福の科学側の完全敗訴に終わっている。現在は残念ながら絶版となって、わずかに流通する古本を入手するか、ネット上に残る断片的な内容によってしか知ることができないが、当ブログでも、所持する資料によって「虚業教団」の内容を補足するなどしているので、是非ご覧いただきたい。
【Algorab archives過去記事】
「神託結婚」―異常性の発現
さて、いかに「虚業教団」が大川隆法教祖の神聖さを脅かし、信者を疑心暗鬼に陥らせるからといって、なぜ「方便の時代は終わった」とする宣言の中で、結果として執拗に高橋信次やGLAに対する極端な脱価値化を行う必要があったのか。
それは、幸福の科学の立宗を支えた初期のメンバーの多くが、高橋信次の死をきっかけに起こったGLA内部の混乱を機に、流れてきた者たちで構成されていたこと、また父親の善川三朗がGLAの会員だった縁で、大川自身も“信次先生”と仰ぐほどの高橋信次信奉者であり、それらの存在が幸福の科学発足の根拠ですらあったのに、ようやく91年以降の危機を脱して自信を取り戻しつつあった当時、そうした要素が転じて今度は足枷となり、再び己の立場を危うくする事態に追い込まれ、自らの独自性を誇示するには、現状維持では済まされなくなったためと考えるのが妥当だろう。
今回ここで、1993年末に「虚業教団」が出版され、94年4月に教義の大変更が宣言されるまでの間、大川が如何にこのことに狼狽し、事態の収拾に七転八倒していたが窺える資料として、1994年 3月 6日のセミナーのレジュメを紹介する。「方便の時代は終わった」とする宣言の1ヶ月前の記録だ。

1994年 3月 9日
3/6 大川きょう子主宰補佐先生『信仰の大切さ』からの学び
1. こういう人が魔に狙われる
【原則】信仰心無く、自らのために神を利用しようとする人。
→貧の心と、慢・疑・悪見
① 貪りの心
○そろばん勘定で信仰をする人・・・幸福の科学を自分の自己実現のために利用しようとする人
→信仰心無く、会員を取り込んで金儲けしようとする人。
→現世利益のみ求め、自分を幸せにしてくれたら神様を認めてやる、という態度の人。
→自分の功名心のために偉くなりたいと思っている人。
② 慢の心
○信仰心なき学びで知天狗になり、慢心して神を裁く人。
○学習や支部での全体方針の学びが足らず自己流の狭い判断で神やサンガーを裁こうとする人
③疑の心
○講談社等の魔の捏造記事を信じ、幸福の科学や主宰先生を疑の心で批判する人。
○高橋信次先生の霊言を疑い、嘲笑する人。
④悪見・邪見
○過去学んだ古い宗教の基準で新しい教えを裁こうとする人。
ここから嫉妬、自己責任の欠如、悪口、妄語等が生じ、ついには和合僧破壊の罪、悪魔に主を売る罪に到る

2. 結局、信仰心しかない~魔の侵入を防ぐ方法
1. 信仰の大切さ
○確固たる、不動の信仰によって、どんな魔からも自分を守ることができる。
2. 信仰を前提とした学習の大切さ
○神理の学習をするなら、信仰心を持つのは最低限の礼儀。
○それによって得られる「智慧」が「降魔の剣」「文殊の利剣」となり、魔のかどわかしを見破り、魔の足掛かりとなる執着を断ち切ることができる。
○地上にいる人の学習が足りないと守護霊が情報不足になり、独自霊域の中で天狗・増上慢になる。
(田原総一郎の守護霊は「お手合わせを」と言うばかりで、勝つか負けるかでしか人をはかれない)
★すべて主宰先生が判断し教えて下さっている。弟子ではない。主宰先生を信じる限り迷うことはない。
3. 支部に集うことの大切さ
○支部で方針を知って従うことが、高級霊の念いに自らの念いを合わせること。
○神理の皮相な解釈による自己流のやり方ではなく、よく意志の疎通を。
(①神仏と一体となる、②他人と一体となるのが真に「無我」となる方法)
4. 救世の情熱の大切さ
○自分の自己実現ではなく、神の自己実現のお手伝いと知ったとき、嫉妬や慢がはずれ、大いなるものと一体化ができる。
○学習だけでなく、実務もきちんと出来なくては3次元における具体的なユートピアの建設は進まない。
5. 謙虚さの大切さ
○高級霊の霊言を位置づけるのは主宰先生のお仕事・・・弟子は主宰先生の解釈を学ぶ立場であって 自分が解釈してはいけない。それは高級霊の言葉を疑い、人間を神の上に置く恐れを知らない行為。

3. GLAの問題
○宗教批判、「疑って疑って疑いぬけ」の教えは、創価学会に対する一転語。
間違いない、という自信があったから仰ったのであって、自分のところまで疑えという意味ではない。
→幸福の科学を潰せないなら、エル・ランティ高橋信次先生の復活だけでも阻止しようというのが、現在のルシファーの狙い。生前の弟子たちに疑の心をもたせて、一人一人切ろうとして来ている。
★生前の教えを受けた方が、霊言による今の教えを信じて初めて先生の復活が成就される。 「どうか気をつけてください。高橋信次先生を応援してください。」
なぜ、あえて実名で
破門された人達は「羊の皮を被った狼」。自分が地獄に落ちるだけでなく、疑の心をふりまいて、 他の人達まで地獄に引き込もうとしている。今まで反省を期待して情をかけたのが仇になった。 これより後、一切の同情は不要。悪魔は砕破あるのみ。
ご覧の通り、「方便の時代は終わった」などと、いかにももったいぶった教義の大変更の、僅か1ヶ月前の公式見解がこれである。
4月の教義変更宣言では、GLAを邪教、高橋信次を浅草仙人とまで言い切って、生前の姿にまで遡ってその存在を貶めているのに、この時までは、ルシファーに狙われている幸福の科学9次元指導霊の高橋信次先生を信じて応援して下さいなどとほざいていたということだ。
今回もトンデモな内容に、部外者の方には付いていけない部分があろうかと思われるが、前回にご紹介した資料の内容と対比すれば、大川のイイカゲンな豹変ぶりは十分ご理解いただけると思う。
また、内容ばかりでなく、このセミナーが、当時の妻で主宰補佐役であった大川きょう子名で行われている点も、この時点での大川の迷いを物語っている。
大川は基本的にチキンなので、重大な局面では責任回避のスケープゴートを立て、周りの顔色を窺う。このセミナーの内容も、きょう子の独断ではなく、大川自身が指示して行わせたもので、別に記録がある。
A4版29ページに渡る資料のため、ここに載せることはしないが、下記リンクに掲載してあるので、やや分量があるが、関心のある方はご一読いただきたい。高橋信次やGLAの極端な脱価値化に至るまでの、大川の憂鬱や苛立ちが如実に表れているばかりでなく、大川隆法という男の俗物ぶり破廉恥さは、元々から一貫して変わっていないことが腑に落ちるはずだ。
【参考資料リンク】『幸福の科学』撲滅対策本部★したらば営業所
資料集Ⅰ『大川隆法の本心』>>699~>>732
94年5月の月刊誌で、会内にエル・ランティ(高橋信次)とエル・カンターレ(大川隆法)という二大神霊信仰があるという懸念を示して、高橋信次やGLA色を、その霊的出自を明らかにするという形で一掃し、エル・カンターレへの帰依一本にし、それ以外のものとは一線を画すとした。
これが「方便の時代は終わった」という教義変更の本質だが、さも真相開示のような体裁でいて、結局のところは、「虚業教団」によって生じた混乱、自らの権威の失墜をどうにか挽回しようとして、右往左往していたのが事実であり、前後の連続性のない、イイカゲンで自棄っぱちの思い付きで、実際どこにも深いお考えなど存在していない。
大川隆法というは、拍子抜けするほど徹頭徹尾「こ・れ・だ・け」なのだ。いつまでが方便であったのかでなく、方便に方便を重ね続ける、どこにも真のないウソと言い訳ばかりの男ということに尽きる。
「方便の時代は終わった」とする教義変更の真相については以上だが、「幸福の科学」というセクト、そして「大川隆法」というグルも、今ではすっかり劣化が極まり、あまりにもマンガ的に豹変し過ぎているから、初期からの変遷ぶりを丁寧に検証しようとすることなど、もはや無意味にすら感じられてしまう。そもそも初期を擁護する気など毛頭ないし、所詮は現在のありのままが全てであるから、既に説明するまでもないのは楽でいいかもしれない。
ただし今後、教団が縮小し離散する過程で、おそらく現状を否定できても初期にしがみつく分派が発生していくであろうし、何より、これほどの変化の中で、なぜ気付くことができなかったのか、なぜ人格が変わってしまうほどの愚鈍化が進んだのかといった、より本質的な観点が残り続けるから、バカバカしい教団の外見にばかり目を奪われていられない。
フライデーほか、この頃すでに幸福の科学への批判記事は出尽くしていたが、一般のライターによる取材記事ではなく、直接の関係者による告発本として、会内に及ぼしたインパクトは比較にならないもので、支部の連絡網を通じて、決して手に取って読むことのないようにとの伝達がされたり、現場ではこのこと自体に触れないようにといった、微妙な空気が形成されていた。

「虚業教団」(現代書林)の帯。問題のポイントが分かる。
「虚業教団」では、関係者は全て仮名で掲載されているものの、関谷氏自身が体験した事実が克明に著されており、その生々しさは、大川隆法という人間の歪さや俗物さを示し、幸福の科学という新興宗教のカルト性を証明するのに余りあるものだった。
古参の会員で関谷氏のことを知らない者は少なく、実際この本の出版が、教団の状況に疑念をもって休眠化していた信者の、脱会への背中を押す結果となっている。
教団も堪らず、例によって裁判に訴えたものの、のちに幸福の科学側の完全敗訴に終わっている。現在は残念ながら絶版となって、わずかに流通する古本を入手するか、ネット上に残る断片的な内容によってしか知ることができないが、当ブログでも、所持する資料によって「虚業教団」の内容を補足するなどしているので、是非ご覧いただきたい。
【Algorab archives過去記事】
「神託結婚」―異常性の発現
さて、いかに「虚業教団」が大川隆法教祖の神聖さを脅かし、信者を疑心暗鬼に陥らせるからといって、なぜ「方便の時代は終わった」とする宣言の中で、結果として執拗に高橋信次やGLAに対する極端な脱価値化を行う必要があったのか。
それは、幸福の科学の立宗を支えた初期のメンバーの多くが、高橋信次の死をきっかけに起こったGLA内部の混乱を機に、流れてきた者たちで構成されていたこと、また父親の善川三朗がGLAの会員だった縁で、大川自身も“信次先生”と仰ぐほどの高橋信次信奉者であり、それらの存在が幸福の科学発足の根拠ですらあったのに、ようやく91年以降の危機を脱して自信を取り戻しつつあった当時、そうした要素が転じて今度は足枷となり、再び己の立場を危うくする事態に追い込まれ、自らの独自性を誇示するには、現状維持では済まされなくなったためと考えるのが妥当だろう。
今回ここで、1993年末に「虚業教団」が出版され、94年4月に教義の大変更が宣言されるまでの間、大川が如何にこのことに狼狽し、事態の収拾に七転八倒していたが窺える資料として、1994年 3月 6日のセミナーのレジュメを紹介する。「方便の時代は終わった」とする宣言の1ヶ月前の記録だ。

1994年 3月 9日
3/6 大川きょう子主宰補佐先生『信仰の大切さ』からの学び
1. こういう人が魔に狙われる
【原則】信仰心無く、自らのために神を利用しようとする人。
→貧の心と、慢・疑・悪見
① 貪りの心
○そろばん勘定で信仰をする人・・・幸福の科学を自分の自己実現のために利用しようとする人
→信仰心無く、会員を取り込んで金儲けしようとする人。
→現世利益のみ求め、自分を幸せにしてくれたら神様を認めてやる、という態度の人。
→自分の功名心のために偉くなりたいと思っている人。
② 慢の心
○信仰心なき学びで知天狗になり、慢心して神を裁く人。
○学習や支部での全体方針の学びが足らず自己流の狭い判断で神やサンガーを裁こうとする人
③疑の心
○講談社等の魔の捏造記事を信じ、幸福の科学や主宰先生を疑の心で批判する人。
○高橋信次先生の霊言を疑い、嘲笑する人。
④悪見・邪見
○過去学んだ古い宗教の基準で新しい教えを裁こうとする人。
ここから嫉妬、自己責任の欠如、悪口、妄語等が生じ、ついには和合僧破壊の罪、悪魔に主を売る罪に到る

2. 結局、信仰心しかない~魔の侵入を防ぐ方法
1. 信仰の大切さ
○確固たる、不動の信仰によって、どんな魔からも自分を守ることができる。
2. 信仰を前提とした学習の大切さ
○神理の学習をするなら、信仰心を持つのは最低限の礼儀。
○それによって得られる「智慧」が「降魔の剣」「文殊の利剣」となり、魔のかどわかしを見破り、魔の足掛かりとなる執着を断ち切ることができる。
○地上にいる人の学習が足りないと守護霊が情報不足になり、独自霊域の中で天狗・増上慢になる。
(田原総一郎の守護霊は「お手合わせを」と言うばかりで、勝つか負けるかでしか人をはかれない)
★すべて主宰先生が判断し教えて下さっている。弟子ではない。主宰先生を信じる限り迷うことはない。
3. 支部に集うことの大切さ
○支部で方針を知って従うことが、高級霊の念いに自らの念いを合わせること。
○神理の皮相な解釈による自己流のやり方ではなく、よく意志の疎通を。
(①神仏と一体となる、②他人と一体となるのが真に「無我」となる方法)
4. 救世の情熱の大切さ
○自分の自己実現ではなく、神の自己実現のお手伝いと知ったとき、嫉妬や慢がはずれ、大いなるものと一体化ができる。
○学習だけでなく、実務もきちんと出来なくては3次元における具体的なユートピアの建設は進まない。
5. 謙虚さの大切さ
○高級霊の霊言を位置づけるのは主宰先生のお仕事・・・弟子は主宰先生の解釈を学ぶ立場であって 自分が解釈してはいけない。それは高級霊の言葉を疑い、人間を神の上に置く恐れを知らない行為。

3. GLAの問題
○宗教批判、「疑って疑って疑いぬけ」の教えは、創価学会に対する一転語。
間違いない、という自信があったから仰ったのであって、自分のところまで疑えという意味ではない。
→幸福の科学を潰せないなら、エル・ランティ高橋信次先生の復活だけでも阻止しようというのが、現在のルシファーの狙い。生前の弟子たちに疑の心をもたせて、一人一人切ろうとして来ている。
★生前の教えを受けた方が、霊言による今の教えを信じて初めて先生の復活が成就される。 「どうか気をつけてください。高橋信次先生を応援してください。」
なぜ、あえて実名で
破門された人達は「羊の皮を被った狼」。自分が地獄に落ちるだけでなく、疑の心をふりまいて、 他の人達まで地獄に引き込もうとしている。今まで反省を期待して情をかけたのが仇になった。 これより後、一切の同情は不要。悪魔は砕破あるのみ。
ご覧の通り、「方便の時代は終わった」などと、いかにももったいぶった教義の大変更の、僅か1ヶ月前の公式見解がこれである。
4月の教義変更宣言では、GLAを邪教、高橋信次を浅草仙人とまで言い切って、生前の姿にまで遡ってその存在を貶めているのに、この時までは、ルシファーに狙われている幸福の科学9次元指導霊の高橋信次先生を信じて応援して下さいなどとほざいていたということだ。
今回もトンデモな内容に、部外者の方には付いていけない部分があろうかと思われるが、前回にご紹介した資料の内容と対比すれば、大川のイイカゲンな豹変ぶりは十分ご理解いただけると思う。
また、内容ばかりでなく、このセミナーが、当時の妻で主宰補佐役であった大川きょう子名で行われている点も、この時点での大川の迷いを物語っている。
大川は基本的にチキンなので、重大な局面では責任回避のスケープゴートを立て、周りの顔色を窺う。このセミナーの内容も、きょう子の独断ではなく、大川自身が指示して行わせたもので、別に記録がある。
A4版29ページに渡る資料のため、ここに載せることはしないが、下記リンクに掲載してあるので、やや分量があるが、関心のある方はご一読いただきたい。高橋信次やGLAの極端な脱価値化に至るまでの、大川の憂鬱や苛立ちが如実に表れているばかりでなく、大川隆法という男の俗物ぶり破廉恥さは、元々から一貫して変わっていないことが腑に落ちるはずだ。
【参考資料リンク】『幸福の科学』撲滅対策本部★したらば営業所
資料集Ⅰ『大川隆法の本心』>>699~>>732
94年5月の月刊誌で、会内にエル・ランティ(高橋信次)とエル・カンターレ(大川隆法)という二大神霊信仰があるという懸念を示して、高橋信次やGLA色を、その霊的出自を明らかにするという形で一掃し、エル・カンターレへの帰依一本にし、それ以外のものとは一線を画すとした。
これが「方便の時代は終わった」という教義変更の本質だが、さも真相開示のような体裁でいて、結局のところは、「虚業教団」によって生じた混乱、自らの権威の失墜をどうにか挽回しようとして、右往左往していたのが事実であり、前後の連続性のない、イイカゲンで自棄っぱちの思い付きで、実際どこにも深いお考えなど存在していない。
大川隆法というは、拍子抜けするほど徹頭徹尾「こ・れ・だ・け」なのだ。いつまでが方便であったのかでなく、方便に方便を重ね続ける、どこにも真のないウソと言い訳ばかりの男ということに尽きる。
「方便の時代は終わった」とする教義変更の真相については以上だが、「幸福の科学」というセクト、そして「大川隆法」というグルも、今ではすっかり劣化が極まり、あまりにもマンガ的に豹変し過ぎているから、初期からの変遷ぶりを丁寧に検証しようとすることなど、もはや無意味にすら感じられてしまう。そもそも初期を擁護する気など毛頭ないし、所詮は現在のありのままが全てであるから、既に説明するまでもないのは楽でいいかもしれない。
ただし今後、教団が縮小し離散する過程で、おそらく現状を否定できても初期にしがみつく分派が発生していくであろうし、何より、これほどの変化の中で、なぜ気付くことができなかったのか、なぜ人格が変わってしまうほどの愚鈍化が進んだのかといった、より本質的な観点が残り続けるから、バカバカしい教団の外見にばかり目を奪われていられない。
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