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セクト対策の遠い夜明け

日本はセクト対策後進国だ。オウム真理教による一連の重大事件を経験していながら、その教訓を真摯に受け止めて活かしたのは、被害当事国ではなく諸外国の方であった。

セクト対策が進んでいるヨーロッパで、その牽引役がフランスであることは知られているが、そうした先進国に比べて、我が国が一体どれくらい遅れているのかを計ろうとしても、それらの国々が歩んできた経過そのものを知るための資料すら乏しい状況に直面して、なおさらその感慨を深くした。

しかし、そんな中でも貴重な記録もある。1997年3月20日から~3月23日までの4日間、毎日新聞に掲載された横山真佳氏による『セクト宗教事情ヨーロッパ報告』という記事で、分量こそ少ないが、セクト対策が急速に展開されつつあった当時のヨーロッパの空気感も感じることができる。
セクト宗教事情誌面

セクトへの危機意識が、当該国において記事にあるような対策に結実していくまでに、どれだけ多くの入念な調査や深い議論が尽くされたであろうことを考えると、私が短く要約することなど失礼にさえ感じてしまうが、全文掲載するわけにもいかないので、甚だ雑駁ではあるが、全4回の要旨を私なりにまとめておく。

第1回 『詐欺罪適用「リヨン判決」の衝撃』(1997.3.20)

1988年3月に「サイエントロジー」に属するダイアネティック・センターに通っていたパトリス・ビック氏が自殺したこと対し、夫人のネリー・ビックさんが同センターを訴えた裁判で、リヨン地裁は、センター関係者らを詐欺や背任などで有罪とした。

セクト問題と「信教の自由」との兼ね合いから注目された判決は、まず、入信から金銭の流れまで組織のメカニズムを解明した上で、たとえ「宗教」の名のもとに集金を行ったとしても詐欺罪が成立すること、また、信者を極端な精神状態に追い込む「マインドコントロール」の存在を認定した画期的なもので、「“宗教”を判断するのではなく、その行為の犯罪性を裁く」という態度で、セクト対策に重要な前進をもたらした。

第2回 『米との差は「宗教を問う」かだ』(1997.3.21)

ヨーロッパにおけるセクト的宗教対策の流れは、1983年のフランスでの「ビビアン報告」に始まり、EC議会での「コットレル報告」を経て、1996年にフランス議会が「フランスのセクト」を採択すると、ベルギーやドイツがこの動きに続いた。この急激な対応の高まりの背景には、アメリカのサイエントロジー容認政策が、結果的にヨーロッパの国民に大きな被害を与えているという強い不満がある。

フランス議会は、セクトの定義をするにあたって、セクト的組織がもたらす外的な危険要因に着目し、その危険性の基準を明確にしたことで、新たな宗教規制立法に拠らなくとも、現行法の運用で対応可能と言う突破口を見出した。

セクト対策は、その「信条」ではなく、あくまで「世俗的な帰結」を問うもので、宗教問題ではないという積極的認識を獲得したヨーロッパと、「信教の自由」を許容しようとして公的な関与に消極的なアメリカとの間で、人権に対する姿勢の相克が浮き彫りになった。

第3回 『官民連携で「包囲網」目指す』(1997.3.22)

フランス議会が採択した「フランスのセクト」では、セクトを定義する代わりに、セクトを見分ける外形的な指標として、10項目の「危険性の判断基準」を定義している。

①精神の不安定化
②法外な金銭的要求
③生まれ育った環境からの誘導的断絶
④健康な肉体への危害
⑤子供の強制的入信
⑥大小にかかわらず社会に敵対する説教
⑦公共の秩序を乱す行い
⑧多くの訴訟問題
⑨通常の経済流通からの逸脱
⑩国家権力への浸透の企て

この基準に従い、10の基準のうち1つでも該当していればセクトとしてカウントし、報告書にまとめたうえ、それらの団体名を公表する厳しい姿勢で臨んでいる。

セクト対策の進む各国では、超党派の議員、警察や国税局等の機関、また研究者やジャーナリストや医師、そしてセクト被害者の市民を含めた官民一体の連携で「セクト包囲網」が形成されている。

第4回 『法規制より世論喚起に重点』
(1997.3.23)


セクト対策に重要な役割を担う市民団体ADFI(家族と個人を守る会)は、1974年に実子が統一教会への入信を機にセクト問題に直面することとなった四家族が核となってスタートし、アンチ宗教ではなく、家族と個人を助けることを目的としている。

ヨーロッパでは、信教の自由は認めつつ、その上で「逸脱行為」を現行法の厳正な適用で対処するという立場だが、脱会カウンセリングに関する「ディプログラミング」には抵抗感が強く、セクト対策には消極的だが、「ディプログラミング」には肯定的なアメリカとの差異が見られる。

ヨーロッパのセクト対策は、既に検討段階から実施段階に進んでおり、多国籍化したセクトに対処するための国際ネットワークの構築、またセクト側の多様なチャンネルを駆使した宣伝勧誘に対抗するための情報発信の検討など、法的規制は慎重に踏みとどまりながら、世論喚起による「予防」に重点が置かれている。

【セクト宗教事情 ヨーロッパ報告】(横山真佳氏・毎日新聞)

上記4回の記事は、縮小版を蔵書してある図書館であれば、当時の記事のまま読むことができるし、「ルポ・宗教 横山真佳報道集2」(東方出版)にも掲載されている。また、このことについての同氏の講演録が下記のリンクで公開されているので、是非ご一読いただきたい。

ルポ宗教2

【参考記事】1997.4.3.「ヨーロッパの〈セクト(カルト)宗教〉について」
大阪国際宗教同志会 講演記録

90年代にヨーロッパで見出された、その「信条」ではなく、あくまで「行為」を問題視するという視点は、言われてみれば当然のようであるが、「信教の自由」を盾にするセクトに対し、尻込みし手をこまねいていた閉塞感に開けた画期的な風穴であり、すべての被害者への福音と言って良いと思う。

そして、社会的な規制の施行には、常に慎重さや高度なバランス感覚が求められるものだが、それでも透徹した10項の危険性の判断基準によって、さらにスコアが1点でも公表して行こうという毅然とした態度には、「人権」に対する意識の違い、羨ましいほどのボルテージの熱さを感じる。

こうした人権に対する姿勢の違いを考えさせられるものに、死刑制度を引き合いにした記事があったので併せて紹介する。

【参考記事】サンドラ・ヘフェリン氏(週プレNEWS)
『ドイツの学校は「カルトの危険性」を教える─オウム事件の死刑執行で考える、死刑によらない凶悪犯罪抑止』

「社会として、死刑制度に頼る以前にできることがある」

「オウム真理教による地下鉄サリン事件も、あの教団に入信する人たちがいなければ起こらなかったはずだし、最終的に死刑制度によって罰する必要もなかったはず」

ドイツの場合は、ナチス統治下の反省があって、国家が人を裁き殺めることへの危惧が強いのだと思うが、死刑制度が人にとっても社会にとっても、本来は幸福な装置ではなく、究極的に人と社会の利益に繋がらないという認識に立って、真に個人と公共の利益を守るための選択を行ってきたということなのだろう。

私個人の死刑制度に対する考え方は、理性と感情の間で矛盾を残したままでいるので、ドイツの人々が、そうした選択に至るまでの過程が、自分がこれから整理をつけていく道として共感できるものがある。

ヨーロッパの人々のそうした素地によって、セクト対策についても、セクトに喰い散らかされ生活破綻をきたした被害者の救済に、社会保障を充てるばかりでなく、それ以前に社会としてすべきことがあるのではないか。当時のヨーロッパでは主にサイエントロジーであったが、我が国で言えば、統一教会や幸福の科学のような教団に入信することがなければ、個人も社会も、そのような不幸な状態に追い込まれることはなかったはずという認識から、個人の尊厳を侵し、社会を弱わらせるような存在を、決して野放しにはしておかないという気概で、セクト包囲網を実現させることができたのだと思う。

他者への無関心と薄情を、「個人の自由」というオブラートに包むのは、「自己責任」で斬り捨て置き去りにする後ろめたさへの体裁のいい遁辞ではないだろうか。自分の日常と具体的、直接的な関りがなくても、その本質において人権に関わる問題ならば、おざなりにせずに全ての人間の意志によって支え続けなければ、いつかその福祉を自分も享受できなくなるだろう。

セクト対策後進国の日本では、研究者の確保や、司法関係者の中での知見の継承などの課題があり、セクト規制の議論以前に、現行法の適用すら十分に実現しているとは言い難い状況でもあるが、セクト対策先進国との何より深刻で嘆かわしい決定的な違いは、『セクト問題は政治的に見捨てられた問題』であることだと思う。

この部分は以前、フリーライターの藤倉善郎氏が述べられていたことで、Twitter上のコメントにもあったが、幸福の科学の執拗な抗議に屈したTwitter社が同氏のアカウントを凍結したため、現在当該ツイートを見ることはできない。

セクトへの問題意識のある人の間でも、政治的なイデオロギーが絡むと、「大事の前の小事」とか、「大同小異」などと、都合良く二の次にされてしまうことがある。一般的な風潮であるが、やはりその根本は政治家の問題意識の欠如に尽きる。

真如苑2代目披露

こちらは、1991.4.12に「真如苑」の2代目お披露目パーティーに父親の安倍晋太郎氏の代理として参上した際の安倍晋三氏(現内閣総理大臣)の姿(FRIDAY 1991.5.3)。

安倍晋三氏

記者のインタビューに「選挙の時は、ウチの派閥としてもまぁまぁご協力いただいておりまして」と素直に答えている。会場には他に、宮沢喜一、塩川正十郎、渡辺美智雄、森喜朗、加藤絋一など、当時の政界の重鎮が出席していた。

この「真如苑」2代目襲名は、初代教主の再婚に伴う家族内の確執から内紛騒ぎに発展し、およそ「宗教」らしからぬ経過の末に定まったもののようで、勧誘手法や金銭問題等に関する脱会信者たちの証言からしても、「危険性の判断基準」のスコアの高低に左右されない「フランスのセクト」の精神に則れば、こことてセクトのひとつと言って差し支えないと考えられるが、政治家がこのような態度では、国会で「日本のセクト」が議論されることは期待できないし、仮に採択されても、こんな有様で公正な運用など到底できるはずがない。

こうした政治家は後を絶たず、また与野党のいずれにも問題がある。

【参考記事】やや日刊カルト新聞
統一教会の“偽装”1万人大会に厚労大臣が代理出席&祝電
菅原一秀衆議院議員を名乗る若者が練馬の大規模祭りに大挙出現
親鸞会信者推薦の共産党、機関紙では親鸞会を“カルト”扱い

セクトを野放にして国民を守れないばかりか、日本では、己が議席を得るために国民を生贄に捧げるような輩が国の中枢にのし上がっている。ある文筆家は「選挙はクズの中から、少しでもマシなクズを選ぶこと」と喝破していた。全員とは言わないまでも、現にこのような状況が連綿と続いてきたからには、なるほどそうなのかも知れない。日本のセクト対策促進のためには、コツコツとそうした邪魔者の駆除から始めないといけないということだ。

損得勘定で動く候補者らに、高度な倫理観を求めても無駄だから、票欲しさにセクトに尻尾をふるのは得策でないと学習させる以外ないのだろう。差しあたって、そのためにできることは、結局のところ監視と批判、そして個々の選挙区における1票しかない。

劇的な変化は望めない気長な話ではあるが、毎回の投票率に表れている、組織票の数倍の票が活かされないまま終わっている部分に、セクトの組織票が意味を成さなくなる潜在力があるはずだ。

選挙制度は、支持する候補者を書く仕組みより、絶対に落としたいと思う候補者を書かせて、結果的に少なかった順に当選させる形にした方が、日本の現状にマッチして投票率が伸びるのではないかと思うこともあるが、とにかく選挙の際は棄権せず、投票に行きましょう。
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幸福の科学学園の洗脳教育

学園体育祭資料Twitter

先日、幸福の科学学園の“教育”の実態を示す資料が公開されました。幸福の科学というカルトの問題が身の回りになければ、ただ気味悪がって笑っているだけで済むかも知れません。しかし、この社会にこのようなものが寄生し、現に未成年を惑わせ、その人生を台無しにしているのは、いかに局地的なことではあっても、決して笑いごとで済まされない、当事者ばかりの問題と言っていられないのが現実なのです。

問題の資料は、幸福の科学学園の体育祭で生徒が宣誓を行った原稿のようです。ここに転載させて頂き、記録に留めておきたいと思います。

学園体育祭資料1

赤・青・黄・白というグループ分けは、単に大会運営上の都合ばかりでなく、それぞれの掛け声の内容に特色があるように教義を反映したものです。幸福の科学は、スタートしてしばらくの間は、歴史上の宗教者や思想家、社会改革者だった高級霊による集団指導体制というのが思想体系の核で、それぞれの霊系を象徴する色がありました。

94年以降は大川を宇宙の根本仏と設定変更し、一神教となっていますが、各霊系は従者の立場になって、今のところ存続されてはいるようです。この中で黄団のボリュームが多いのは、釈迦の生まれ変わりと称する大川の霊系が黄色と定義されているからでしょう。

信仰の勝利 我ら光の戦士 ここにあり
使命が大きく ぶつかる壁も大きいけれど
どんな時でも 主の愛があった
その大いなる愛を受け止め
我らの聖なる使命を果たすことを ここに誓う
光はここにあり 信仰の名のもとに
勝利以外の結果はない
神のおおせのままに 戦え 神のままに
(幸福の科学学園「黄団」掛け声)


90年代に教祖の大川が大伝道の号令を発した際、動員を進めるためにこの「光の戦士」というフレーズが流行しました。当時本部職員で青年部の相談役であった俳優の南原宏治などが、「光の天使は元々の霊格が高くないとなれない、でも意志があれば光の戦士にはなれる」とアジったり、また大川も「釈迦の本体が行う救世運動という千載一遇の今世で「地涌の菩薩」になれる」とか、100人以上の伝道実績を挙げた者を「獅子奮迅菩薩」と銘打って表彰するなど、選民的な意識を高揚させ使命感で煽るようなことをして、それがやがて仕事や家庭と伝道のどちらが大事なのかという空気を形成するかたちとなり、自己の信仰を競うように仕事をやめて活動にのめり込む信者が続発した過去があります。

幸福の科学学園も、その卒業生の8割以上が、文科省から教育内容への疑義と大学審議会への問題行動から、設置を不認可とされて私塾として開学したHSUを進路としており、これこそが幸福の科学学園の“教育”の果実ということです。

90年代の若者たちの場合は、教祖や教団によるマインド・コントロールと同調圧力があったにせよ、各自が自己選択によって入信していた部分では軽率の誹りを免れませんが、幸福の科学学園の生徒の場合は、いくら当事者が自由意志を主張したところで、信者の親の家庭に生まれ、他に選択肢を与えられない内集団の環境下に育ち、無批判に幸福の科学の信仰を植え付けられたうえに、こうして学園の中でそれを強化されているという、まさに洗脳教育と言って差し支えない実態でしょう。

演武1
演武2
演武3

こちらの「演武言霊」というものも含め、「伝説」「正義」「エル・カンターレ文明」「救済」「誓い」「未来を担う責任」「主と同じ時代に生まれた」「不滅の真理」「幾転生生まれ変わっても」「常識の壁」「俺たちが知っている真実はその常識を打ち破る」「主とともにあるならば恐れるものなど何もない」など、幸福の科学信者にとってのパワーワードが散見されます。

これらの中の「主」や「エル・カンターレ」というのは大川隆法を指したものです。これらの宣誓などを、森友学園の園児たちが運動会で行っていた様子などを思い起こしながら読んでみていただければ、その異様さを実感して頂けるでしょう。

幸福の科学学園というのは、「グリフィンドール」とか「スリザリン」とか、「ハリー・ポッター」に登場するホグワーツ魔法魔術学校のような空想の世界を地で行く、大川隆法への個人崇拝を根幹にすえ永遠の中二病を量産しようとする、明らかにカルト宗教学校なのです。


アメリカの精神科医ロバート・J・リフトンなどのマインド・コントロールや洗脳の研究者によると、宗教的なグルが信者にもたらすものは、「死をものともしない不滅の感覚」、「無限の偉大な存在の一部であるという感覚」とされています。

こうしたグルと信者の側面について分かりやすい記述として、精神科医の岡田尊司氏の著書「マインド・コントロール」(文藝春秋)の中からいくつか引用します。

「傲慢なまでの自信と揺るぎない確信がカリスマ性の源泉であることは、多くの人が指摘していることであるが、グルは奇矯なまでの万能感を膨張させることによって、自信のなさと不安を抱えた人々に、強烈な印象と救済者としての期待を呼び起こす」

「そして、自分もまた特別でありたいと願いながら、しかし、何の確信も自信ももてない存在にとって、「真実」を手に入れたと語る存在に追従し、その弟子になることは、自分もまた特別な出来事に立ち合う特別な存在だという錯覚を生む」

「その錯覚のまやかし性は、グルが特別な存在だと信じることによって、自分も特別な存在だと証明されるという構造によって支えられている。つまり、自分が特別な存在でありたいという願望が、グルを信じ続けるしかないという状況に、その人を追い込んでいく」

「カルトに陥った人は、さまざまな理不尽さや矛盾を味わう。しかし、それを見て見ぬふりをする。理不尽さや矛盾と向き合い、グルが特別な聖者だという前提を疑うことは、自分自身の存在の支えを危うくすることだからだ。都合の良い事実だけを見て、グルを盲信し続けるしかない状況に陥っている」

こうしたカルト信者の心理特性も、一世と二世や三世の場合とでは、その前提となる本質的な要素に事情が異なる部分があろうかとは思います。

例えば、一世が抱く存在不安は、自己の葛藤に由来するもので、選民意識もその裏返しに過ぎないものが、二世・三世の場合であれば、その多くが親の盲信によって機能不全家庭に陥っている状況で、信者である親からの価値観の押し付けが存在不安を生じさせている側面があり、教団の世界観を根拠にした自己肯定感が選民意識を支えている構造と考えられること。

また、一世の場合は、マインド・コントロールによる躾の影響から脱会こそ難しいものの、自己の内面で折り合いを付けられさえすれば辞めても戻れる元の自分の領域が残っていることに対して、二世・三世の場合は、内集団の中で洗脳状態に置かれていても、多くは思想的な葛藤を経て受け入れた信仰でなく、教団を離れることへの脅迫観念も漠然として必ずしも根深いものではないことから、いったん外界に接するようになれば、そのギャップに目が覚めやすい傾向がある代わりに、親兄妹との関係や社会の無理解、そして身に付けられてしまったバックボーンをかなぐり捨てて、改めて自分の育て直しをしなければならないといった事が重い足枷になるという、真に脱会を妨げるのもの比重が、心理的な問題にあるか、現実的な問題によるのかという違いです。

ともあれ、入口と出口の扉に違いがあっても、信者として示す心理特性そのものは判で押したように同じです。

インド独立の指導者のひとりであるマハトマ・ガンディーは、社会的運動が歩む過程で直面する困難を、「無関心」、「嘲笑」、「非難」(抑圧)と洞察しました。これもひとつの真理と思います。但し、こうした認識が、カルトの中では己らを省みることなく自己正当化として働き、逆は必ずしも真ならずということが理解できなくなります。現実検討能力が阻害されて気付きが遅れ、次第に社会と乖離を深めて突っ走り、やがて生活破綻や社会不適合を起こして人生を破滅させてしまうのです。

教育基本法では、国及び地方公共団体が設置する公立学校を除き、特定の宗教教育や宗教活動そのものは禁止していません。ただしこれは、宗教に関する寛容の態度と宗教の社会生活における地位を尊重しようとする主旨に基づくもので、このような実態を決して野放しにしておいて良いことではありません。

現状の幸福の科学のような、絶対的な個人崇拝を前提に批判に対する極端な憎悪を助長する態度が、一条校の設置者として、また教育内容として妥当なのかどうか、社会通念に照らして厳しく議論され、客観的に査定し直される必要があるはずです。


【参考関連記事リンク】
ハーバービジネスオンライン2019.06.04
特定進路を強制、幼少期に入信させる……。見過ごされる「教育虐待」の実態とは


プロフィール

土矢浩士(ハンドルネーム:アルゴラブ)

Author:土矢浩士(ハンドルネーム:アルゴラブ)
セクトの犠牲者である家族と個人を支えるネットワーク
「RSFI MAIKA」代表

日本脱カルト協会
「JSCPR」会員

当ブログへようこそ。
「幸福の科学」の問題を中心に、セクトについて考えていきます。

ご相談等の場合は、リンク先頭の「RSFI MAIKA公式ホームページ」のコンタクトよりご連絡ください。

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