大川隆法の次男で現在教団トップの大川真輝は、昨年に行われた講演の中で、信者を前にして「この20年、活動信者が増えていない」と述べています。

教団幹部がうっかりと幸福の科学の公称がいかに当てにならないものか暴露したかたちとなりましたが、立宗後20数年、様々な紆余曲折を経ながら、結局のところ90年代の水準を越えられず、そればかりか、現在はそれが高齢化した古参信者と、その二世・三世によって構成されていることによって、もはや教勢が傾斜のスパイラルから逃れられない状況にあることが露呈しました。
そうした事情に耐えかねてか、2017年末には、いよいよ教団内において大規模な拠点の整理縮小と職員の大リストラが始まっています。このことについては、91年に行われたリストラの状況と比較しながら、次回以降に改めてまとめたいと思いますが、教祖の大川は、職員組織の粛清のほか、さらに信者に対しても、これまで以上の布施の勧進を押し進める指示を行っていることから、今年は2009年以来の職員や信者の脱会が相次ぐものと見込まれ、その波を前に、脱会するということについて、今一度まとめておきたいと思います。
ただし、今回扱うのは脱会の手続き的なことではなく、心の問題です。それも脱会してからのことではなく、疑問を抱いてから日常に復帰するまでの心理プロセスについてです。
信者と職員の違い。その信者の中でも、ほとんど教学のみで活動歴のない人とリーダー会員としてあらゆる活動に没頭した人。また職員でも支部の現場にいた人と本部にいた人。さらに自ら入会した者と、二世・三世の違いなど境遇は様々ですが、何らかのきっかけで教祖や教団に疑問を抱き、やがて脱会に至るプロセスには、誰もがおおよそ同じ道筋を歩みます。
それは極端な話、幸福の科学に限ったことでもありません。幸福の科学信者が辿る脱会過程の思考プロセスから幸福の科学的要素を除いてみれば、他宗の脱会者の歩んだ道ともそう大差がないものです。
「生病老死・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦」に、「火難・水難・羅刹難・王難・鬼難・枷鎖難・怨賊難」と、まこと人生とはままならぬもので、愛情や依存の対象、そして日頃から慣れ親しんだ環境や所有物、また生き甲斐とした目標や自己イメージなど、様々な事柄の喪失体験から、人には逃れる術はありません。
こうしたことを「対象喪失」と言い、この状況下で起こる怒り、恐れ、不安、絶望感などの感情の過度の高ぶりによって自己の統制を失うことや、場合によっては潰瘍、高血圧、心疾患などの身体症状まで含めて「対象喪失反応」と呼ばれています。
カルトからの脱会といえども、一度は人生をかけて信じたかけがえのないものを手放すということは、当事者にとっては「対象喪失」の体験に他なりません。死別の悲しみへの対処が人間にとって永遠の課題で、そこに信仰の意義があるのであれば、その喪失も同様に軽視しがたいものなのです。
そうしてこれら「対象喪失」した際に直面する精神的危機を克服するためには、嘆きや悲しみを十分に表現できる機会が必要で、それが時間と共に自然と心が整理されていく営みを「喪の作業」とか「悲哀の仕事」といいます。
疑念を抱き、脱会し、その過去を総括する過程では、時として、教祖と教団に裏切られたという怒りや憎しみ、また反対に選択を誤ったという深い後悔と自己嫌悪の間で激しい感情の起伏を経験し、教団との関わり方の度合いに応じて個人差はあるものの、そうした自分を持て余す心穏やかでない辛い時期を踏破せねばなりません。
けれども、それはあくまで正常な悲哀の心理プロセスであり、主体性を取り戻し再び自立するための必須の過程なのです。この心理過程に身も心も焼き尽くし、「悲哀の仕事」耐えかねて中断してしまったりすると、「対象喪失反応」が起こる要因となりえます。
カルトの中にいるうちに、悲しむことを精神生活から排除してしまっていたため、無自覚に染みついてしまった様々な習慣をデトックスするのには、自分で考えているよりも多くの相応の時間が必要ですから、くれぐれも早々に結論を出そうとするような焦りは禁物です。
この「悲哀の仕事」にマニュアルはありません。ただ、現実を真摯に受け止め、きちんと断念を積み重ねて、心静かに悲しむ能力を獲得していく以外にありません。ただし「悲哀の仕事」を妨げるものを知っていれば、いたずらに困惑したり、絶望感にうちひしがれることなく前向きに進んでいくことができるでしょう。
焦りは悲哀の苦痛の働きとして、さまざまな心の術策を用いて「悲哀の仕事」の妨げとなります。たとえば幸福の科学的要素として、まず脱会に至るまでの間には、現状の「否認」や、自己処罰感情も絡めたかたちの、教祖の祟りや教団からの害悪への「恐怖」が足枷となることがあるでしょう。
そして脱会後には、対象への過度の「理想化」や反対に「悪玉化」、またそれに対する強度の「復讐心」、あるいは分派や他のカルトに乗り換える対象の「置き換え」などが、自然な心の歩みを押しとどめ「悲哀の仕事」の達成の妨げとなっているようです。
自分にとって都合の良くない対象のもつ暗黒面を否認し、ひたすら良い面だけを分離させて喪失の苦痛を回避しようとする態度を「ポリアンナイズム」と呼び、教祖無罪論や初期肯定論がそれに当たるものと思いますが、大川を悪魔や大悪党として激しく憎悪することも、一見まったく正反対の態度のようでいて、それらは共に対象喪失から日常に復帰していく心理プロセスの上にある両極端の要素ということになります。
こうした一時的なプロセスの段階に拘り、いつまでも留まったままでいることで、浦島太郎のように全く時間が止まったままの人がたまにおられます。客観的事実を前にしても、失った対象への思慕の情から心の向きを変えられないのは、「悲哀の仕事」には知性以上に人格の成熟度が鍵であることを示していると思います。
こうしたことから私は、単に脱会に至りさえすればそれで良いとは思っていません。脱会そのものが至上の目的なのではなく、心理的過程を踏んでこの「悲哀の仕事」をやり遂げて頂くことを願っています。そうでなければ、多大な犠牲を払いながら、結果的に教訓を学び尽くしたことにならないと考えるからです。これを達成したときこそ、カルトの呪縛から解放されて心は自由を取り戻し、いよいよ真の脱会として「アンチ」卒業となるのだと思います。
心の整理のためのブログやTwitterなどを活用した表現や、共感の繋がりが広がることは大変良いことで、かつ有難いことです。ただし「アンチ」の仕事は、あくまで「悲哀の仕事」の達成であることを、心の片隅に置いておいて頂ければと思います。
ところで、よく「アンチは一枚岩ではない」と、内外から批判があります。けれども、上記の通り、いわゆるアンチ化した状況には、このようにさまざまな心理の段階の方がいるわけですから、一枚岩でないのは当然のことです。ゆえにアンチを組織化することなど不可能ですし、その必要もなく、すべきでもないと思っています。
まずは自分と折り合いをつけて「アンチ」を卒業した後に、なおカルトによる社会規範の冒涜や個人の尊厳への侵害等に対して抵抗する意志が湧き出すようなら、その時こそ「アンチ」から「レジスタンス」へと生まれるのに、まったく遅くはないのですから。