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カルト宗教のアイヒマンたち~「オウム」と「幸福」④

連続してきた同テーマの締めくくりに、今回は果たして彼らの社会貢献は本物か。教祖と信者という観点も含めて資料を検証していきます。

当ブログにて、既に「スラップ指示書」として何度か紹介してきた文書ですが、本来これは仮谷さん拉致事件後に、大川が創価学会に仕掛けた宗教戦争をいったん中断してオウム事件に注力し始めた際の文書としての意味があります。

95.3.9 文書(スラップ指示書)
95年3月9日文書

この文書から読み取れるのは、大川が初手からオウム側のキーマンを青山吉伸弁護士(当時)としてロックオンし、その際オウムからの反撃はせいぜい裁判に訴えてくる程度と考えていたことです。そして、「相手の10倍、100倍で訴え返す」「相手もブラフ(おどし)なので、当方もブラフ(おどし)」と基本方針を指示しました。

95.3.13文書(上)

95.3.13文書(中)

95.3.13文書2
95年3月13日文書

さらに、こちらの文書では、より具体的な内容が言及されています。こちらは当時の広報局長の小川空城(女優の小川知子の実兄)との間で交わされた通話記録になりますが、目撃者の職員が個人で行う警察への捜査協力は別として、教団としては、①マスコミへの働きかけ、②ビラ配りや街宣活動、③青山への懲戒請求や教団への告発の三本柱に据え、これら手段を「包囲殲滅戦」と称して、短期間でオウムを追い落とすつもりでいたことが分かります。

では、これらの活動の実際がどうであったのかと言うと、まず第一のポイントであるマスコミへの働きかけとしては、上九一色村に職員工作員を派遣し探偵の真似事をさせ、仮谷さん拉致に使用されたと思われる車両が埋められている写真を撮ったとして、産経新聞と朝日新聞に売り込んでいる様子が報告されています。

この文書が貴重であるのは、当時の裏側の状況がよく分かると言うことの他に、教祖と職員のコミュニケーションパターンの典型がよく表れている点にもあります。

会話中では、自分たちが掴んだネタが大スクープで、両紙の記者が大変なインパクトを受けて帰ったようなニュアンスで伝えられているのですが、ここには大川のご機嫌取りにネガティブな報告は控えめにして、逆にポジティブなことを針小棒大に盛って伝えるという職員の日頃の習慣がよく表れており、大川にしても、バブルの伝道数を真に受けて大失敗した過去を、三歩歩いてすっかり忘れている様子が読み取れます。

しかし、教団がスクープと思って売り込んだ写真がニュースを飾ることはありませんでした。なぜなら、事件とは何の関係もない車両であったからです。

他の目撃者証言で、犯行に使われた車が「わ」ナンバー(レンタカー)であったことから、ナンバーを入れ替えていた可能性は当初から指摘されてはいました。但し犯行車両はあくまで三菱デリカスターワゴンに絞られていたのです。

しかし、幸福な頭脳では、どういうわけかナンバーの入れ替えが、車両そのものの違いという検討違いの方向へ暴走したようです。最低限の基本的な事実関係の整理ができていなかったのは、おそらくちゃんと新聞を読んでいなかったのでしょう。結局のところ教団が自慢のスクープは、載せたら大誤報となってしまう人騒がせなガセネタに過ぎなかったのです。

95.3.5朝日新聞
3月5日時点で割り出されていた車両(朝日新聞)

無関係な車
事件に何の関係もなかった車両(幸福の科学工作員撮影)
フロントが埋まっていて見えないが、サイドのフォルムからでも新聞発表のあった車両でないことは明らか。

また次のポイントとして、信者を動員したビラ配りや街宣活動についてですが、この3月13日時点では、「オウムの拉致を考える会」という幸福の科学を隠してダミー団体名で行うよう入念な指示が出されています。

幸福の科学発のフェイクニュースでは、教団は終始オウムに対して正々堂々、真正面から敢然と立ち向かったような主張を展開していますが、実際のところ「宗教法人幸福の科学 全国会員有志一同」で出されたビラは、社会的にオウムへの強制捜査の秒読みの空気感が充満していた頃合いを見計らって、満を持して行われた3月18日のデモ行進の時だけです。

それ以外は、サリン事件前は「オウムの拉致を考える会」を使い、事件後も「オウム真理教から国民の生命を守る会」とか「悪徳弁護士を告発する市民の集い」といったダミー団体名を騙って、徹頭徹尾コソコソとした動きに終始していたのが事実です。

3月18日ビラ
3月18日デモで撒かれたビラ。
幸福の科学名でなされたのはこの時が最初で最後この1枚のみ。
大川の指示書どおり、「百倍返し」の記述がある。

そして、最後のポイントであるオウムの青山弁護士への懲戒請求や教団への告発については、青山側からの訴えを警戒しつつ、反対にオウムへの告発を最後の手段と考えながらも、あくまで青山個人をターゲットに絞って、弁護士資格の懲戒請求の準備を進めている様子が記録されています。

大川自身、「これ(青山)を潰さないとね。これ一人。これを取ったらあとは子供みたいな団体。」と、あくまで教祖の麻原よりも青山を重要視していることが、ここでもはっきりと確認できます。

そしてこの数日後、3月18日のデモ行進等をきっかけに、まずオウム側が幸福側を訴え、それに応じるかたちで幸福側がオウム側を訴えるという訴訟合戦が勃発しました。しかも、幸福側の訴えは1995年3月20日、まさに地下鉄サリン事件の当日です。

つまり、カルト宗教団体による化学兵器を使用した前代未聞の無差別テロを目前にして、その危機を全く想定することなく、大川隆法と幸福の科学のマヌケな仲間たちは、オウム側の訴えに応戦するべくスラップ訴訟の準備にせっせと勤しんでいたということです。
95.3.19 朝日新聞
3月19日 朝日新聞
幸福の科学のビラに対しオウム側が提訴したことを報じた記事

95.3.21朝日新聞
3月21日朝日新聞
オウム側の夕刊紙コメントに対し幸福側が提訴したことを報じた記事

教団のフェイクニュースでも、この文書の中でも、警察活動への高飛車な批判が散見され、オウムへの強制捜査の後押しをしたのが幸福のような口ぶりです。

でも、捜査の真似事の末つかんだ情報はガセネタで、これでは令状が下りるはずがありませんし、都心だけでなく上九一色村で行おうとしていたデモ行進は不許可となっているのですから、教団は社会貢献をしたどころか、むしろ出しゃばりからマスコミを惑わせ仕事を増やし、警察活動に支障をきたしかねない邪魔さえしていたと言った方が妥当です。

教団は、3月18日のデモ後の3月20日に「地下鉄サリン事件」が起こり、警視庁が重い腰を上げて強制捜査を行ったのだと、自分らの活動が強制捜査を促したと強弁していますが、そもそも強制捜査の容疑は「仮谷さん拉致事件」であって、「地下鉄サリン事件」ではなく、オウムは周囲に強制捜査が迫ったことを察知して、その阻止に地下鉄サリン事件を起こしたのに、なんで幸福の活動が強制捜査を速めたことになるのか。

だいたい因果関係の筋道が滅茶苦茶です。こんな程度の論理の展開がまかり通るなら、時系列からして、強制捜査の準備が着々と進行する最中、幸福の科学のデモ活動等がオウムを過剰に刺激し、内部の圧力を高めさせて凶行に走らせる引き金となったと言うことさえできてしまいます。

もっとも、教団の活動はA4判の上質紙を大量にゴミにし、外堀通りの空気をちょっと揺らして、お茶の間の奇妙な話題になった程度で、良くも悪くも実質なんの役にも立たなかったというのが実情でしょう。

幸福の科学は、機関誌「The Liberty」で、「宗教を語るときに、印象レベルではなく、事実をもって語ってもらいたいものだ」と述べています。

このことについて異論はありませんので、お望み通り事実をもって検証してきましたが、結果は御覧のとおり、教団の手前味噌なプロパガンダは僅かな事実と多くのウソで成り立つ質の悪いデマカセで、その言説に信頼できる要素はなく、逆に教団の厚顔無恥な下衆ぶりを示すブーメランになって教祖の大川に突き刺さっていきます。

だいたいこれらの出典、信者が拠り所としている話というのは、事件後の「新生日本の指針」という講演会での、オウムの崩壊にホルホルした大川の与太話を唯一の根拠としているのですから当然です。

95.3.10文書
3月10日文書
「捜査進展に合わせて警察・マスコミ支援。もし上九一色村等に大規模捜査が入るようなら、ヘリを飛ばして上空から撮影、ハンドマイクで「警察の皆さん頑張って下さい!」「住民の皆さん頑張って下さい!」等の支援も検討。麻原逮捕までドラマチックに進むようなら、写真誌『オウム真理教撲滅作戦―現代の大江戸捜査網―(仮称)』などの書籍を緊急発刊も考える。」

ごく短期間オウム事件に注力した大川隆法の動機は、宗教家の高尚な道義心などではなく、「朝まで生テレビ」で打ちのめされた意趣返しと、他宗を批判して自らの正教化をはかる火事場泥棒的な売名の企て、そして結局のところ単なる野次馬根性でしかありませんでした。

その結果展開されたのは、それぞれが宗教を冠していながら、甚だ相応しくない態度によって、カルト宗教同士がこの社会の片隅で実に迷惑千万なみっともない場外乱闘を繰り広げていたという構図です。


この当時の流れを、あらためて現在に照らして考えてみた時、昨年に公選法違反で教団と党本部に家宅捜索を受けた際に、当時のオウムと同じ「違法捜査」とか「宗教弾圧」と言った主張で、さらに政府批判の霊言本まで出した往生際の悪い教祖がいたことを感慨深く思います。

また先頃、白金の教祖殿へのジャーナリストの取材に対して常軌を逸した過剰な反応を示し、弁護士名で脅迫状まで送り付けたりした行為についても、カルト宗教信者の危険性を露骨に示したものと思います。

95.2.12文書
2月12日文書
「支部・本部等に嫌がらせにきた場合は、すぐ複数の職員で写真撮影及び8ミリビデオ等で撮影のこと」

今回の記事のために検索した文書の一節に、上記のような箇所がありました。白金教祖殿での一件での教団職員の態度は、この大川の指示書にある通りの、そのままの対応です。

95年当時のオウムへの活動の時も、信者は教祖の指示通りにビラを撒き、デモ行進し、訴訟を起こしています。そのことの是非について、信者、特に職員は自分で評価しません。つねに「お伺い」をたてるよう躾を受けた彼らが独断専行することはなく、またその能力もありません。

大川の宗旨替えや朝令暮改は、大川の優柔不断さを示すものではありますが、信者への一種のマウンティングという側面もあります。

オウムにも幸福の科学にも、カルトに共通する実態として、個人の判断は「人間心」として否定され、「先生には深いお考えがある」と、教祖のために信者は幾度も認知的不協和に晒され、常態化した不安定さへの防衛機制が妄想性を強化して、前後の連続性を失わせて現実検討能力を奪っていくのです。

その都度、教祖からの細々とした指示に従い、慣れれば「主の心を我が心として」などと忖度して、粛々と忠実に教祖の自己実現に奉仕する彼らは、「イェルサレムのアイヒマン」のような凡庸な悪そのものです。そしてそれを壊れたロボットのごとく馬鹿の一つ覚えで繰り返すのです。

ひとたび信者が疑問を持ち、自己の認識を改める過程では、職員が悪い、組織が悪いというプロセスを誰もが一様に踏むもので、それは人情としては理解できますが、教団の表出する様態は全て教祖の幼稚で醜悪な人間性を反映したものに他ならず、教祖無罪論の限界がここにありますし、事実この通りなのです。

信者にとっては、大川がこう言ったという「事実」は、それはそれで信ずるに足る理由ではあるのでしょうが、しかし実際にどうだったのかという「事実」は次元の違う問題なのです。こうした思考的な傾向は、脱会後もこのことを努めて意識しようとしなければ、なかなかその癖が抜けないかも知れません。

映画「マトリックス」で、目覚めようとする仲間を裏切る人間のセリフに「無知は幸福」というものがありました。「オウム」と「幸福」と題して四回に渡って、オウム事件の絡みから幸福の科学のフェイクニュースについて詳しく追ってきましたが、いかに客観的事実を摘示したところで、是が非でも教団に留まりたい熱烈信者の曇った目を覚まさせるには至らないでしょう。

けれども、家庭環境のため成り行きで信者になって、無批判に教団の言説を受け入れているだけの二世・三世や、オウム事件から年数が経ち、当時を知らなかったり、事件の記憶が風化しはじめている一般の方などにとっては、それなりに有効と思われますので、この幸福の科学というカルト教団を計る判断材料のひとつとして、これらの記事をご活用頂ければ幸いです。
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胡乱な正義~「オウム」と「幸福」③

「地下鉄サリン事件」に極まるオウム真理教が起こした一連の事件に関連して、幸福の科学が自己顕示から繰り返してきた数々の主張が、単なるフェイクニュースに過ぎないことは、既出の資料の検証だけでも十分明らかなわけですが、ここでは当時の内部資料数点を通じて、さらに見ていくこととします。

幸福の科学のフェイクニュースでは、大川が生命の危険を顧みずオウム批判を続けていたとしていますが、95年2月28日に発生した目黒公証人役場事務長の仮谷さんの拉致事件の目撃者のひとりに教団職員がなるまでは、自らが仕掛けた創価学会への宗教戦争に血道をあげていて、実際のところオウムに対して殆ど関心を持っていなかったことは既に指摘しました。

そもそも、幸福の科学がこの「命がけ」というフェイクを強調し始めたのは、事件後オウム真理教関連の裁判が進む過程で、オウム元幹部の井上義浩死刑囚が、95年1月に教祖であった麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚から、95年2月の横浜アリーナでの講演会中に、大川隆法らを生物化学兵器で殺害するよう指示を受けていた等の供述をしていたことが明らかとなってからで、要するに後で取って付けたものです。

この時期に、大川自身はオウムに対してノーマークであったことは以下の資料から見ることができます。
95.2.21文書
95年2月21日文書 
S対策として創価学会からの反撃を警戒しているが、オウムのオの字もない。

95.3.1広報局指示
95年3月1日文書 
「広報局の業務について」として、S対策に新聞投稿や怪文書ビラのタイトルなど具体的な指示が並ぶ。

上記の文書内では、創価からの嫌がらせがあった場合には、「仏罰があたるぞ」とか「火炎地獄に落ちるぞ」とか、得意の「エル・カンターレ・ファイト」などと言って強い調子で叱ることといった指示がなされていますが、教団施設周辺に出没していた不審者は、殺害機会を狙っていたオウムの殺人部隊であったのに、大川はそれを幸福の科学のネガキャンに怒った創価信者と完全に見誤って指示を出していたのです。サリンやVXガス、細菌兵器を用いて暗殺を繰り返していたオウムに対して、こんな有様では命がけで警戒していたと言えないでしょう。

オウムの大川への殺害計画は、講演会の前日に主宰用車両への工作というかたちで実行されたものの、井上死刑囚の供述通りであれば、信者を巻き込むことに迷いがあり、また生物化学兵器の取り扱いや工作に不慣れだったことで結果的に失敗に終わっています。しかし、これが兵器の取り扱いに精通し工作に慣れた他の者であったら、大川や職員たちの愚かなほどの脳天気なオキラクゴクラクぶりからして、間違いなく犠牲者が出てしまっていたことと思います。

普段は人一倍に臆病者のチキンであるくせに、当時の大川のこうした危機意識の欠如していた実態は、オウムが大川を狙っていたのは事実でも、大川に覚悟があったわけではないということの証です。

井上死刑囚の供述がなければ、オウムに殺害されかかっていた事実にすら気付いていなかかったほどの愚かなオメデタさにも関わらず、サリン攻撃含めオウム事件の全容を初めから見抜いていたなどという寝言は通じません。

それは以下の文書によっても明らかです。
95.3.13文書
95年3月13日文書 
当時は主宰の大川を「7方」、補佐の恭子を「8方」と呼んでいた。

3月13日の時点で「たぶん」という認識です。
何より宇宙の根本仏の大霊能者のはずが、目撃者の職員やオウム退会歴のある信者の証言頼みの当て推量ときたもので、テレビや新聞、雑誌の報道を追う一般人とまるで大差ない状況であったものを、信者にはあたかも全てお見通しであったかのように吹聴するのですから、大川隆法と幸福の科学というのは根からのフェイカーで、教団にとって信者というのは、つくづくチョロい存在と看做されているのだと思います。


次回は、一連の投稿の締めくくりに、果たしてオウム事件に社会的貢献があったのかどうか、教祖と信者の関係という観点を絡めて見ていくこととします。
プロフィール

土矢浩士(ハンドルネーム:アルゴラブ)

Author:土矢浩士(ハンドルネーム:アルゴラブ)
セクトの犠牲者である家族と個人を支えるネットワーク
「RSFI MAIKA」代表

日本脱カルト協会
「JSCPR」会員

当ブログへようこそ。
「幸福の科学」の問題を中心に、セクトについて考えていきます。

ご相談等の場合は、リンク先頭の「RSFI MAIKA公式ホームページ」のコンタクトよりご連絡ください。

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