信者を“おかず”にする教祖の自慰行為
清水富美加の出家宣言に始まる幸福の科学が巻き起こした一連の騒動。「出家」という行為の意味に泥を塗られ、宗教界も迷惑したことと思います。
一時は清水への同情的な意見もあったものの、全容が判明するにつれて擁護する声は影を潜め、一週間もするとシラケムードすら漂い、現在では殆ど話題にすらのぼらなくなりました。疾風怒濤の勢いで突っ走り、そのまま崖から奈落の底に落ちていった感じです。
今回の人騒がせな茶番劇、この筋書きには幸福の科学にとって2つの目論見があったのだろうと思います。
一つは、芸能人を広告塔に仕立て、世間に見向きされなくなり落ち込んでいた教勢の立て直しの契機にしようとしたこと。
そしてもう一つは、激しい劣等感の裏返しに、宇宙の根本仏にまで病的に肥大化した幼児的万能感を抱えたカルト教祖が、その底なしの空虚感の埋め合わせに、信者の清水富美加をオモチャにして、「荒んだ私の心を救ってくれた大川先生マンセー」と言わせて自己の承認欲求を満たしたかったこと。
要は、千眼美子を“おかず”にした、大川隆法のみっともない自慰行為に世間が付き合わされていたわけで、世人から完全に気味悪がられて当然の結果です。
今回の作戦も失敗に終わりましたが、教祖は決して責任を取りませんから、スケープゴートに、ワンパターンな大川の考えをヨイショしていた役員の誰かのクビが飛ぶでしょう。
また、今月のニューフェイスの加入によって喜び組のバランスが崩れますから、お役御免の宿下がりか、職員に払い下げのクリアランスになる姫も出てくるかと思われます。
「千眼美子」で教団が発信する「ポスト真実」とは裏腹に、事実によって強く印象図けられたのは、幸福の科学信者のトコトン不幸な人生模様でした。
彼女の周辺のことは、既に報道し尽くされているので、ここで改めてまとめる必要はないと思います。幸福の科学信者を親にもち、多様な価値観との接点に乏しい状況で生育した二世信者の彼女にとって、信者の親は毒親以外の何者でもありませんでした。
幸福の科学自体が、極端な善悪二元論の価値観にあり、さらに二世信者の彼女にとって、棄教は親との決別という要素も含むことから、私生活の問題が引き金とは言え、追い詰められたうえに教祖に迫られれば、彼女の選択肢も極端にならざるをえないのは自明のことです。
彼女の置かれた現状をよくよく考えれば、できることなら人身保護請求でも何でもして、今いる環境から離れたところに保護しないと相当マズい事態と思いますが、実際のところは、手の出しようがないのが残念なところです。
一見いかにも理性的な、もっともらしい態度で、奥歯にものが挟まったように「信仰の自由」とか「彼女自身の幸せ」などと、彼女の選択や教団自体への直接の批判を避ける意見も散見されます。確かに人の心を無理矢理に変えることはできないし、すべきでもないと思います。けれども、その中には対岸の火事的な、他者への無関心が隠れてはいないのでしょうか。私は、そんなに簡単に割り切って良いこととは思えません。

「ホームオブハート」から生還したTOSHIさん
X JAPANのボーカルTOSHIさんが「ホームオブハート」に取り込まれていた当時、放送局での取材を終えた帰り際、出待ちしていたファンたちが、TOSHIさんの背中に向かって、「帰ってきて!!」と、それぞれ渾身の思いを込めて訴え続ける映像を見たことがあります。
その時、TOSHIさんは、一瞬立ち止まりました。
TOSHIさんは、ファンたちに応えることなく、関係者に促されて背を向けたまま車に乗って立ち去るのですが、立ち止まった一瞬には、言葉が突き刺さったように表情が固まっていたのが印象に残っています。
批判を受け付けない頑なな心にも、きっとストレートな思いは届いたのでしょう。そうした気持ちのひとつひとつが、彼をカルトの闇から日常に生還させる命綱になったのだと思います。
清水富美加さんにも、その命綱が必要でしょう。
彼女が主演していた映画の舞台挨拶で、共演者が涙ながらに呼び掛けていましたが、こういう人として自然な声を、自粛しなければならない理由はありません。

カトリーヌ・ピカールさん
フランスの反セクト法(無知脆弱性不法利用罪)の制定に尽力されたカトリーヌ・ピカール氏は、2015年に「日本脱カルト協会」の招きに応じて来日され、「フランスのカルト対策:発展と課題」と題された講演において、こう言われました。
「セクトの問題は宗教の問題ではなく人権の問題」であると。
人に害を与え、人を幸せにしないセクト(カルト)の、基本的人権と自由への侵害から個人と公共の利益を守るという概念があります。
宗教、信仰の問題だからと、口を閉ざす日本の状況は必ずしも常識的ではありません。
この差は一体どこから来るのでしょうか。
反セクト法を成立させた土壌には、「人権」へのボルテージの高さがあるように感じていますが、この講演の質疑応答の最後に同氏は、「フランスでも、ここに至るまでにはモンテスキューから300年かかっているのですよ」と、日本のカルト対策の今後を励まされました。
オウム真理教のような大事件を経験していながら、社会は教訓を活かせているのかと疑問に思うことは少なくありませんが、決して一朝一夕にいくものではなく、日本はまだまだこれからです。
一過性の過熱した報道が収まったこれからは、より本質に迫った議論が成熟することを願っています。
幸福の科学の問題は、宗教の問題ではなくカルトの問題。
そして、幸福の科学の問題は人権の問題なのです。
一時は清水への同情的な意見もあったものの、全容が判明するにつれて擁護する声は影を潜め、一週間もするとシラケムードすら漂い、現在では殆ど話題にすらのぼらなくなりました。疾風怒濤の勢いで突っ走り、そのまま崖から奈落の底に落ちていった感じです。
今回の人騒がせな茶番劇、この筋書きには幸福の科学にとって2つの目論見があったのだろうと思います。
一つは、芸能人を広告塔に仕立て、世間に見向きされなくなり落ち込んでいた教勢の立て直しの契機にしようとしたこと。
そしてもう一つは、激しい劣等感の裏返しに、宇宙の根本仏にまで病的に肥大化した幼児的万能感を抱えたカルト教祖が、その底なしの空虚感の埋め合わせに、信者の清水富美加をオモチャにして、「荒んだ私の心を救ってくれた大川先生マンセー」と言わせて自己の承認欲求を満たしたかったこと。
要は、千眼美子を“おかず”にした、大川隆法のみっともない自慰行為に世間が付き合わされていたわけで、世人から完全に気味悪がられて当然の結果です。
今回の作戦も失敗に終わりましたが、教祖は決して責任を取りませんから、スケープゴートに、ワンパターンな大川の考えをヨイショしていた役員の誰かのクビが飛ぶでしょう。
また、今月のニューフェイスの加入によって喜び組のバランスが崩れますから、お役御免の宿下がりか、職員に払い下げのクリアランスになる姫も出てくるかと思われます。
「千眼美子」で教団が発信する「ポスト真実」とは裏腹に、事実によって強く印象図けられたのは、幸福の科学信者のトコトン不幸な人生模様でした。
彼女の周辺のことは、既に報道し尽くされているので、ここで改めてまとめる必要はないと思います。幸福の科学信者を親にもち、多様な価値観との接点に乏しい状況で生育した二世信者の彼女にとって、信者の親は毒親以外の何者でもありませんでした。
幸福の科学自体が、極端な善悪二元論の価値観にあり、さらに二世信者の彼女にとって、棄教は親との決別という要素も含むことから、私生活の問題が引き金とは言え、追い詰められたうえに教祖に迫られれば、彼女の選択肢も極端にならざるをえないのは自明のことです。
彼女の置かれた現状をよくよく考えれば、できることなら人身保護請求でも何でもして、今いる環境から離れたところに保護しないと相当マズい事態と思いますが、実際のところは、手の出しようがないのが残念なところです。
一見いかにも理性的な、もっともらしい態度で、奥歯にものが挟まったように「信仰の自由」とか「彼女自身の幸せ」などと、彼女の選択や教団自体への直接の批判を避ける意見も散見されます。確かに人の心を無理矢理に変えることはできないし、すべきでもないと思います。けれども、その中には対岸の火事的な、他者への無関心が隠れてはいないのでしょうか。私は、そんなに簡単に割り切って良いこととは思えません。

「ホームオブハート」から生還したTOSHIさん
X JAPANのボーカルTOSHIさんが「ホームオブハート」に取り込まれていた当時、放送局での取材を終えた帰り際、出待ちしていたファンたちが、TOSHIさんの背中に向かって、「帰ってきて!!」と、それぞれ渾身の思いを込めて訴え続ける映像を見たことがあります。
その時、TOSHIさんは、一瞬立ち止まりました。
TOSHIさんは、ファンたちに応えることなく、関係者に促されて背を向けたまま車に乗って立ち去るのですが、立ち止まった一瞬には、言葉が突き刺さったように表情が固まっていたのが印象に残っています。
批判を受け付けない頑なな心にも、きっとストレートな思いは届いたのでしょう。そうした気持ちのひとつひとつが、彼をカルトの闇から日常に生還させる命綱になったのだと思います。
清水富美加さんにも、その命綱が必要でしょう。
彼女が主演していた映画の舞台挨拶で、共演者が涙ながらに呼び掛けていましたが、こういう人として自然な声を、自粛しなければならない理由はありません。

カトリーヌ・ピカールさん
フランスの反セクト法(無知脆弱性不法利用罪)の制定に尽力されたカトリーヌ・ピカール氏は、2015年に「日本脱カルト協会」の招きに応じて来日され、「フランスのカルト対策:発展と課題」と題された講演において、こう言われました。
「セクトの問題は宗教の問題ではなく人権の問題」であると。
人に害を与え、人を幸せにしないセクト(カルト)の、基本的人権と自由への侵害から個人と公共の利益を守るという概念があります。
宗教、信仰の問題だからと、口を閉ざす日本の状況は必ずしも常識的ではありません。
この差は一体どこから来るのでしょうか。
反セクト法を成立させた土壌には、「人権」へのボルテージの高さがあるように感じていますが、この講演の質疑応答の最後に同氏は、「フランスでも、ここに至るまでにはモンテスキューから300年かかっているのですよ」と、日本のカルト対策の今後を励まされました。
オウム真理教のような大事件を経験していながら、社会は教訓を活かせているのかと疑問に思うことは少なくありませんが、決して一朝一夕にいくものではなく、日本はまだまだこれからです。
一過性の過熱した報道が収まったこれからは、より本質に迫った議論が成熟することを願っています。
幸福の科学の問題は、宗教の問題ではなくカルトの問題。
そして、幸福の科学の問題は人権の問題なのです。
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