今年も教団にとって大切な年中行事が近づいています。
「御生誕祭」という教祖のお誕生日会です。
この誕生日会というと教祖のコスプレの強烈な印象が強いですが、最初の誕生日会は虚勢を張ったド派手な演出であったもののコスはなく、コスが始まったのはもうひとつの年中行事「エルカンターレ聖夜祭」という年末イベントからで、そこから徐々に目を覆いたくなるほど痛いレベルにエスカレートしていったのでした。
さて、この「御生誕祭」ですが、大川の誕生日とされているのが7月7日ということに由来します。
教団史「法輪、転ずべし」より教団内では1956年7月7日7時7分7秒と吹聴されていました。
しかし、この誕生日、実は単なる届出日で、実際の出生日ではありません。
これは、私が徳島勤務時代に、大川の実母である中川君子さんから直接聞いています。
君子さんは、露出は殆ど無いものの、当時「秘書長」の肩書のある役員でもありました。
善川三朗(中川忠義)・中川君子夫妻実母によると、彼(中川隆)は川島町の中川家にてお産婆さんの手によって取り上げられたとのこと。
病院ではない自宅分娩で、正確な時刻など記録されておらず、そればかりか、当時は役所への届け出も親の都合の良いタイミングで行くので、日付も好き勝手できたそうです。
父親の善川自身も同様にお産婆さんによって取り上げられて、届出がかなり遅れてなされたらしく、こうしたアバウトな感覚は、当時の田舎町にしてみたら特別不思議のないことだったようで、隆の届出についてものんびりしていて、2週間くらいほってあって、妻にせかされてやっと届け出たといったものでした。
戸籍法では、国内での出産の場合は出生の日から14日以内との定めがありますから、2週間くらいという間隔自体はいっけん問題ないように見えるのですが、この時にどうやら正確な日時を申告しなかったようなのです。
事実を暴露されたことか、届出の遅れを責められたことか、善川は少しバツが悪そうな表情でしたが、君子さんは無邪気に語っていました。
そして、面前でなされる実父母の話を、地元の会員は苦笑いで聞いていたのを覚えています。
この偽りの生年月日については、私以外の脱会職員の情報にも出てきていて、ハンドルネーム:ファルコン名でなされている内部告発情報の中で、東京の総合本部内で実母の君子さんが「あの子の生まれは7月7日じゃない」と周囲に語っているということが問題となっていることがリークされています。
このとき本部内では「7月6日」が実際の誕生日なのではという認識に落ち着こうとしたように見受けられますが、個人的には東京の本部が地元の状況把握を十分にできていない様子が伺えます。
ともあれ、時期を違えて秘書(宗務)職に就いていた者の情報が、直接と伝聞という性質の違いことあれ、生年月日が偽りという点で一致し、さらに職員の少なからずが、この誕生日が偽りであることを知っていたということが明らかとなりました。
また、大川の発言の言語的事実から、生年月日の虚偽を指摘したものもあります。
「私は昭和31年の7月7日、朝、潮満つるころ、7時ごろに生まれました。その数字の示すとおり、777という数字が並びます。7という数字は、天上界において、勝利を意味する数字であるのです。これは一つには勝利を意味し、もう一つには完成を意味する数字であります」
(1990年第7回大講演会「勝利の宣言」)この発言の
「朝、潮満つるころ」に着目し、当時の潮汐表から疑問を呈されている方もおられました。
その方にならって、私も潮汐表で検討してみました。
海上保安庁第五管区海上保安本部 潮汐表川島町の所在する徳島の計測ポイント、「亀浦」「孫埼」「小松島」それぞれで調べます。
亀浦7月7日
孫埼7月7日
小松島7月7日ご覧の通り、1956年7月7日の朝7時に、どこも満潮ではありません。
7月6日でも同様です。
亀浦7月6日
孫埼7月6日
小松島7月6日それでは逆に、仮に朝方生まれたというのが事実であったとして、朝7時頃に満潮だった直近の日はと言いますと
亀浦6月4日
孫埼7月4日
小松島6月26日小松島の次の朝7時満潮タイミングは7月10日になってしまい、君子さんの話で、7月7日より前で「2週間くらいほってあって」という時間感覚に近いものとなると、この小松島の記録から6月26日あたりの可能性が高いのでしょうか?
もはや嘘は隠しようがなく、「御生誕祭」は「御届出日祭」とでも改めるのが妥当でしょう。
ところで、大川は講演の中で、下記のようなことを言っています。
「名誉顧問(注:善川三朗のこと)のもともとの寿命自体(天命)は82歳まででした。生年月日は1921年11月20日なので、満81歳と9カ月での帰天でしたが、名誉顧問が生まれたときに、父親が出生届を役場に出すのが遅れたらしいので、実際には満82歳ぐらいにはなっていたようです。昔は、なかなか届を出さずに放っておくことが多かったので、数か月ぐらいの誤差はあったのかも知れません」
(大川隆法「復活の法」P314)私は、大川自身が元々は自分の生年月日が不明である事実を知っていたのではないかと考えています。しかし、いつの頃からかそのことに目を瞑ったのではないかと。
そもそもこの嘘は、大川自身ではなく父の善川に発するものだったわけですが、その嘘をつき続けているとなれば、もう大川自身の嘘と言えます。
ただし、もっとも今では自分でも7月7日と思い込んでいると思います。
自分自身を宇宙の根本仏と信じて疑わない本人には、もはやその自覚はないでしょうから。
別に、誕生日がいつかなんて、本来たいした事ではありません。
どのみち今となっては、ホントはいつだったのかさえ分からなくなってしまったのですから。
重要なのは大川の誕生日の実際ではなく、事の本質は、総合本部の幹部や職員達、四国の関係者も実は少なからずこの事実を知っているということです。
こうしたウソを知り、中にはさらに大川に微塵も神性など認めていないにも関わらず、その事実に蓋をし、隠し、信者を騙し続けている連中が大勢いるということなのです。