カルトの萌芽期
発足からしばらくの間は、表面的には人畜無害のおとなしい学習団体で、講演会の他、講師育成を目的としたセミナーや研修会が盛んでした。
月刊誌のかなりのページが、そうした機会での、会員による優秀論文で埋められているものもあります。
それらは研修会での答案ばかりでなく、その研修に参加する資格を得るための試験の答案であったりもして、こうした様子は90年5月の研修まで続いていきますが、掲載された優秀答案から、当時の会員の趣向を理解して頂けるのではないかと思いますので、2つのサンプルを抽出してご紹介しましょう。
(写真は88年9月研修会の様子)

最優秀答案例①
「幸福の科学の出現の使命について」(87年8月初級セミナー終了認定試験)
幸福の科学の出現の使命は、現在さまざまな分野に分かれている各文化領域を、唯一の「神の理念」「宇宙の英知」のもとに再統合し、偉大なる真の「霊性」をこの高度に発達した物質文明の中に復活させ、人類が太古のエデンの園において与えられていた「幸福」を再びとり戻すことにあると考えます。
そのためにはまず第一段階として、個々人の心の中にユートピアを築くために、人々の思念と行動の基準、尺度となる「幸福の原理」として「愛」 「知」 「反省」 「発展」という現代の四正道を考えました。そして今まで、未知のベールに包まれていた人間の心という広大な内的宇宙の構造を科学的に解明していくことを目指します。それは基本的な考え方として、 「内」から「外」へ、 「土台」から「柱」へというプロセスを重視するからであり、あくまでも個人における「私的幸福」の構築ができてからのち初めて全体における「公的幸福」の完成へと到ることが可能になるからであります。
究極の「理法」 へのアプローチ方法としては、 「空間」と「時間」というこの二つのフィルターを設定しています。 「空間」の側面からは、縦方向への垂直的展開として、宇宙の次元階層論を説きます。その中では「正しさ」というもの、「悟りの段階」というものが、いろいろなレベルで顕現していることを認識します。善悪二元論だけではなく、「光」の階梯、 「正しさ」の階層の存在を認めていこうとするのです。 「時間」の側面からは、横方向への平面的展開として、真の人類の歴史書である「アカーシャ-記録」に基づき、この三次元世界の時間の流れの中に、それぞれの時代環境に応じて現われた、多様な個性と色彩を帯びた「黄金の糸」の展開を認識します。
このように幸福の科学では、 「空間」と「時間」の両側面から「多様性の同時存在」を認め、さまざまな多くの個性を持った「正しさ」が集まり来たり、相補い合い、そしてより「大いなる正しさ」の形成へと弁証法的に発展していくという運動形式を認めているのです。 「多様性」の理解、包含は、より高さ世界、存在への飛躍を意味するのであります。
人間の自由自在な創造行為によって、神の世界の繁栄を現わそうとする「外へのベクトル」 、それを象徴するかのような現代における高度物質文明があります。それに対し、一切の執着から離れ、心という内なる無限世界の探究をしようとする「内へのベクトル」 、その広大な内的宇宙を保持する「霊的文化」があります。この二つは決して相反するものではなく、相助け合うものであると思います。
この外なる教えと内なる教えとを融合させ、真の「発展」を達成すること、つまり光輝く実相世界に存在する仏国土、ユートピア、イデア界にある「実在する理念」をこの三次元現象界に解放することが幸福の科学の使命です。

最優秀答案例②
「反省と祈りのちがいについて」(88年9月研修参加資格認定試験)
両者共に、神の子たる自己の実相顕現を目的とした精神統一の修法であるが、反省が八正道を基準として自らの「過去」の人生における過てる心と行ないを修正し、真我を発見するという「自力」であるのに対し、祈りは個人や社会・人類の「未来」を金色に光らせ給えとの神仏への念い、すなわち「他力」の期待である。
また、反省が、想念帯の曇りを晴らした際に自然と神の光が差し込むという「受動的」な面が強く、転落を防ぐための最小限の条件かつ「悟りへの出発点」であるのに対し、祈りは、実相世界へと光の柱を立て、直接霊エネルギーを取り込み、高級神霊との交流を行なうという「積極的・能動的」な「悟りの発展」である。
加えて、祈りとは"念"であるから、謙虚さ・無私の心が絶対不可欠で、その意味からも反省を前提としない祈りは不毛であり、はなはだ危険でもある。
「反省から祈りへ」この心理的軌跡こそ最重要だが、純粋な神への感謝の祈りは、その限りでない。
さて、これら答案の回答者が誰かと言いますと、「幸福の科学の出現の使命」の最高得点答案は、会員番号183番の阿部浩之さん。
また、「反省と祈りのちがいについて」の最優秀者は、会員番号:1368番の須呂崇司さんと記載されています。
この両名はとても対照的です。
両者とも、若くして周囲から一目おかれる、会内では知る人ぞ知る初期屈指の優秀な職員でしたが、阿部さんは大川隆法からその才能を恐れられ、イビリを受けたうえに神託結婚を強要されたことで脱会していきます。
一方の須呂さんは、逆に大川に2度も結婚を潰され(彼女を別の男の神託結婚の相手として召し上げられ)ながら、今なお教団に留まっています。
彼自身、何の葛藤もなく受諾したわけではないでしょう。実際、2度目の時は一時無断欠勤を続けるなど中途半端な反抗をしたため、いったん与えられた「竜樹」という法名を剥奪されています。
この「反省と祈り」の自己の主張に立って、いまの自分らの有り様を正視できるでしょうか・・・?
もともと聡明だった人に起こった心理変化は、マインドコントロールのひとつの実例です。
それはさておき、当初の学習団体という性質が、大川の発信する霊言や思想の中に込められたカルト性のほとばしりを抑制し、スタートにおいては、会員の向上心そのものは単純に誠実であったと言えます。
しかし、いかに立派なことを言っていようと、実際において社会不適応なものを量産するばかりの結果は、そのエッセンスが、多分に夾雑物を含んだ、真理とは似て非なるものということの証です。
月刊誌のかなりのページが、そうした機会での、会員による優秀論文で埋められているものもあります。
それらは研修会での答案ばかりでなく、その研修に参加する資格を得るための試験の答案であったりもして、こうした様子は90年5月の研修まで続いていきますが、掲載された優秀答案から、当時の会員の趣向を理解して頂けるのではないかと思いますので、2つのサンプルを抽出してご紹介しましょう。
(写真は88年9月研修会の様子)

最優秀答案例①
「幸福の科学の出現の使命について」(87年8月初級セミナー終了認定試験)
幸福の科学の出現の使命は、現在さまざまな分野に分かれている各文化領域を、唯一の「神の理念」「宇宙の英知」のもとに再統合し、偉大なる真の「霊性」をこの高度に発達した物質文明の中に復活させ、人類が太古のエデンの園において与えられていた「幸福」を再びとり戻すことにあると考えます。
そのためにはまず第一段階として、個々人の心の中にユートピアを築くために、人々の思念と行動の基準、尺度となる「幸福の原理」として「愛」 「知」 「反省」 「発展」という現代の四正道を考えました。そして今まで、未知のベールに包まれていた人間の心という広大な内的宇宙の構造を科学的に解明していくことを目指します。それは基本的な考え方として、 「内」から「外」へ、 「土台」から「柱」へというプロセスを重視するからであり、あくまでも個人における「私的幸福」の構築ができてからのち初めて全体における「公的幸福」の完成へと到ることが可能になるからであります。
究極の「理法」 へのアプローチ方法としては、 「空間」と「時間」というこの二つのフィルターを設定しています。 「空間」の側面からは、縦方向への垂直的展開として、宇宙の次元階層論を説きます。その中では「正しさ」というもの、「悟りの段階」というものが、いろいろなレベルで顕現していることを認識します。善悪二元論だけではなく、「光」の階梯、 「正しさ」の階層の存在を認めていこうとするのです。 「時間」の側面からは、横方向への平面的展開として、真の人類の歴史書である「アカーシャ-記録」に基づき、この三次元世界の時間の流れの中に、それぞれの時代環境に応じて現われた、多様な個性と色彩を帯びた「黄金の糸」の展開を認識します。
このように幸福の科学では、 「空間」と「時間」の両側面から「多様性の同時存在」を認め、さまざまな多くの個性を持った「正しさ」が集まり来たり、相補い合い、そしてより「大いなる正しさ」の形成へと弁証法的に発展していくという運動形式を認めているのです。 「多様性」の理解、包含は、より高さ世界、存在への飛躍を意味するのであります。
人間の自由自在な創造行為によって、神の世界の繁栄を現わそうとする「外へのベクトル」 、それを象徴するかのような現代における高度物質文明があります。それに対し、一切の執着から離れ、心という内なる無限世界の探究をしようとする「内へのベクトル」 、その広大な内的宇宙を保持する「霊的文化」があります。この二つは決して相反するものではなく、相助け合うものであると思います。
この外なる教えと内なる教えとを融合させ、真の「発展」を達成すること、つまり光輝く実相世界に存在する仏国土、ユートピア、イデア界にある「実在する理念」をこの三次元現象界に解放することが幸福の科学の使命です。

最優秀答案例②
「反省と祈りのちがいについて」(88年9月研修参加資格認定試験)
両者共に、神の子たる自己の実相顕現を目的とした精神統一の修法であるが、反省が八正道を基準として自らの「過去」の人生における過てる心と行ないを修正し、真我を発見するという「自力」であるのに対し、祈りは個人や社会・人類の「未来」を金色に光らせ給えとの神仏への念い、すなわち「他力」の期待である。
また、反省が、想念帯の曇りを晴らした際に自然と神の光が差し込むという「受動的」な面が強く、転落を防ぐための最小限の条件かつ「悟りへの出発点」であるのに対し、祈りは、実相世界へと光の柱を立て、直接霊エネルギーを取り込み、高級神霊との交流を行なうという「積極的・能動的」な「悟りの発展」である。
加えて、祈りとは"念"であるから、謙虚さ・無私の心が絶対不可欠で、その意味からも反省を前提としない祈りは不毛であり、はなはだ危険でもある。
「反省から祈りへ」この心理的軌跡こそ最重要だが、純粋な神への感謝の祈りは、その限りでない。
さて、これら答案の回答者が誰かと言いますと、「幸福の科学の出現の使命」の最高得点答案は、会員番号183番の阿部浩之さん。
また、「反省と祈りのちがいについて」の最優秀者は、会員番号:1368番の須呂崇司さんと記載されています。
この両名はとても対照的です。
両者とも、若くして周囲から一目おかれる、会内では知る人ぞ知る初期屈指の優秀な職員でしたが、阿部さんは大川隆法からその才能を恐れられ、イビリを受けたうえに神託結婚を強要されたことで脱会していきます。
一方の須呂さんは、逆に大川に2度も結婚を潰され(彼女を別の男の神託結婚の相手として召し上げられ)ながら、今なお教団に留まっています。
彼自身、何の葛藤もなく受諾したわけではないでしょう。実際、2度目の時は一時無断欠勤を続けるなど中途半端な反抗をしたため、いったん与えられた「竜樹」という法名を剥奪されています。
この「反省と祈り」の自己の主張に立って、いまの自分らの有り様を正視できるでしょうか・・・?
もともと聡明だった人に起こった心理変化は、マインドコントロールのひとつの実例です。
それはさておき、当初の学習団体という性質が、大川の発信する霊言や思想の中に込められたカルト性のほとばしりを抑制し、スタートにおいては、会員の向上心そのものは単純に誠実であったと言えます。
しかし、いかに立派なことを言っていようと、実際において社会不適応なものを量産するばかりの結果は、そのエッセンスが、多分に夾雑物を含んだ、真理とは似て非なるものということの証です。
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