佐野眞一氏が迫った「幸福の科学」大川隆法の実像
9月26日、ノンフィクション作家の佐野眞一さんの訃報が流れました。享年75歳でした。大宅賞の受賞実績もある一方で、後年には橋下徹に関する記事の責任をとって第一線から退くかたちとなり、そのままひっそりと去ってしまわれた印象で残念に思っています。
そんな佐野さんですが、幸福の科学の大川隆法について書いた記事があります。記事は全9ページにわたるボリュームで「月刊Asahi」1991年4月号に掲載されました。

当時はというと、1990年12月8日に読売新聞朝刊の一面広告で大川が初めて顔出ししたのをきっかけに、少しづつマスコミにその名が広まりつつあったものの、幸福の科学はオウム真理教の奇行の影に隠れながら静かに拡張を続ける新興宗教のひとつという程度の扱いにすぎず、それが良くも悪くも注目を集めるようになるには、7月の東京ドームの御生誕祭や9月の講談社フライデー事件を待たねばなりませんでした。
しかし、そうしたカルトの胎動が衆目に触れる以前に、既に幸福の科学の諸問題の核心に迫るレポートがなされていたわけです。丁寧に取材され充実した内容で、以降の様々な記事も佐野さんのルポを参考に肉付けしたものであろうと想像できます。
昨今の大川隆法や幸福の科学の乱痴気ぶりからすれば、最早その俗物性やカルト性の理解の妨げになるものはないと思いますが、ただしカルト問題として考察する時には、いかにも分かりやすい異常さにだけ着目するのではなく、そのカルトの萌芽から変遷を理解するように努めなければ、決して問題の本質に辿り着けないだろうと考えています。
また、数年前のことになりますが、大川がある本部職員に命じて、徳島の郷土史を買いあさらせているといった情報提供を受けたことがあります。大川の長男である宏洋の離反によって最終的にお蔵入りとなってしまった映画「さらば青春、されど青春。」、そこでの自分史改竄の企画を控えていた大川が、その障害になり得るような事実を消し去ろうとする目論見と考えられ、自己の神格化のために出自について掘り返されることを恐れている様子が窺えました。
そうした観点からも、この記事は大川隆法や幸福の科学というカルトを理解しようとするとき、その前提となる必須の基本情報を豊富に含んだ大変重要な記録だと考えています。全文掲載は控えますが、その一部分をここに抜粋してご紹介し、生前の佐野さんのお仕事を偲びたいと思います。

佐野眞一氏
「幸福の科学主宰 大川隆法 挫折だらけの生いたち」
大川隆法こと中川隆は、昭和31年(1956年)7月7日、父・中川忠義(幸福の科学内部での通称は善川三朗)母・君子の次男として、徳島県麻植郡川島町大字桑村に生まれた。
徳島からJRで40分ほどいった川島駅前の敷地20坪足らず、モルタル2階建ての小さな生家はいま空き家となっており、両親は現在、徳島市八万千鳥の敷地約120坪という、かなり大きな会員宅を無料提供されて住んでいる。
中川隆のこれまでの軌跡をたどるには、その父の中川忠義について触れなければなるまい。
中川忠義は大正10年(1921年)11月、父・源佐エ門、母・テルノの次男として麻植郡樋山地(現・鴨島町)に生まれた。地元の古老によれば、父の源佐エ門は小作のかたわら大工仕事もしていたが、その生活は村でも最底辺であったという。
その父も死に、昭和のはじめ、中川一家は川島町に新天地を求めたものの、生活は いっかな好転せず、昭和9年(1934年)、母と幼い子供ら4人は、東京の書店で働く異腹の兄を頼って上京することを余儀なくされた。麻布台のボロ家に身を寄せた一家は思い思いの働きで、貧しい家計を支えた。
忠義によれば、この東京生活の間、矢内原忠雄門下の無教会派で学んだ後、乃木坂にあった「生長の家」の門をたたき、谷口雅春から じきじきの教えを受けるなど、いくつかの宗教遍歴をつんだという。
戦後、故郷に戻った忠義は麻植郡美郷村の中枝小学校の代用教員をつとめた。だが多感な性格から教職を投げだし、戦後の一時期は共産党運動に走った。
当時、一緒に運動にかかわった仲間によれば、忠義は只芳の偽名で、県委員会機関紙「徳島新報」の編集兼発行人をつとめていたという。
「只芳という名前から、ロハさんと呼ばれていた。入党はしていなかったが、機関紙の編集兼発行人だったから、みんなからは「アカ」と思われていた」
日本共産党中央委員会の理論政治誌『前衛』1984年11月号は「わが地方の日本共産党史(V)」として、徳島県を特集している。そこにも古い活動家として中川只芳の名前が紹介されている。
共産党を離れてからの忠義は、当時めずらしかったマロングラッセの製造販売を手がけたり、毛糸の編み針の製造会社を興すなどしたが、いずれもうまくいかず、さらには結核に倒れ、1年間の療養生活を送らねばならなかった。
その間の生活は、理容学校出身の母・君子が、家の階下を床屋にして支えた。
忠義にようやく経済的安定の道がひらけるのは、かつて日共の運動仲間だった県畜産課職員を頼って、昭和39年(1964年)4月、社団法人・徳島県畜産会に就職してからのことである。
この間、忠義はたまたま徳島を訪れた生長の家系統の新興宗教、GLAを主宰していた高橋信次の講演を聞き、深い宗教的感銘も受けている。
多感な性格から政治的活動や宗教的遍歴を重ね、常に経済的不安につきまとわれてきたその忠義は、毎晩のように子供に向かって宗教に関する話をし、その一方で、強烈な一流志向と上昇志向を植えつけた。
「どんな田舎の学校であっても、どんな小さな学校であっても、一番だけは違うよ。どんな狭い地域社会においても、一番だけは値打ちがあるかもしれないよ」
片田舎での英才教育。中川一家の近所での評判があまり芳しくないのは、ある意味で仕方のないことなのかもしれない。
「人柄は悪くはないんだが、忠義さんは ちょっと人を見くだしたところがある。君子さんは君子さんで、あんまり息子自慢をするものだから、誰もあの床屋には行かなくなってしまった」
四歳年上の兄・力の存在も、隆の向学心に拍車をかけた。
県下の進学校、城南高校から京大文学部哲学科にストレートで入学した力は、生まれたときから頭脳明晰で、弟の隆としては「兄に負けまい」との圧迫感が常につきまとい、小学校時代から夜中の12時まで勉学に励まなければならなかった。
川島小学校を一番で卒業した隆は川島中学に進み、ここでも一番を通した。担任教師によれば、隆は生徒会長もつとめ、卒業色紙には「人生は短き夏にして、人は花なり」などと、中学生とも思えぬませた詩を書き、卒業写真の撮影では、担任教師を手招きで呼び寄せ、二人して真ん中におさまるなどのソツない芸当を平然とやってのける生徒だったという。
しかし、十で神童、十五で才子、二十歳すぎればタダの人という俚言を地でいくように、県下から俊英の集まる城南高校に入学してからの隆は、なにひとつ目立たない存在となってしまった。高校時代のクラスメイト、剣道部時代の仲間など十数人に たずねても、はっきりとした記憶さえよみがえってこない。
返ってくるのは、「そんなヤツおったかなという程度。エッ、東大に入ったんですか。勉強も全然できるほうじゃなかったのになあ・・・・」という そっけない答えや、「覚えているのは、通学列車のなかでも参考書を一心不乱にのぞきこんでいたことくらいかな。みんなとも遊ばなかったし、小太りで運動神経もニブく、女生徒にはまったくモテなかった」という証言だけだった。仏陀の生まれ変わりとして女性会員から熱烈にあがめたてまつられる現在の大川とは、まるっきり別人のような人物像ばかりなのである。
高校時代の担任教師によれば、隆の進路指導の父兄面接には必ず父親が現れ、一貫して東大進学を希望していたという。
だが、東大受験にはあえなく失敗。隆は京大生の兄を頼って、京都の駿台予備校に入った。
一浪後の昭和51年(1976年)、東大文Iに入学した隆は、学者をめざして猛勉に励んだ。やはり城南高校から東大文Iに進んだある同期生は、「学者になるには最低三か国語をマスターしなければいけない。ぼくはリンガフォンを買って勉強しているんだ」という隆のキャンパスでの言葉を妙に生々しく覚えている。だが、法学部政治コースに進み、篠原一教授のゼミに入ったものの成績は上がらず、東大に助手として残るとの夢は砕かれた。
全国から集まった秀才たちのなかで劣等感の虜となり、やがて対人恐怖症にも陥った。都会育ちの女性に恋をして、山のようなラブレターを送ったあげく、失恋に終わったことも、なおいっそう失意をつのらせた。
それでもなお、父親の息子に寄せる期待の大きさは変わらなかった。下宿先の大家によれば、父親は、洋服から靴までをあつらえて送り、隆に衣服を買うことを許さなかった。
昭和55年(1980年)、隆は国家公務員試験と司法試験を受けたが、いずれも失敗。翌年、東大を留年して再チャレンジしたものの、やはり不合格に終わった。
エリートコースへの道をことごとく閉ざされた隆は、結局、昭和56年(1981年)、総合商社・トーメンに就職する道を選びとる。同年の東大法学部卒業生によれば、東大生にとってトーメンは三流商社でしかなく、もし望んで就職したとすれば、きわめて異例のことという。
大川に最初の「霊感」が現れたのは、そのトーメンに入社する直前の昭和56年(1981年)3月のことだったとされている。そのときのことを、大川は自著『平凡からの出発』のなかで、こう語っている。
「・・・・・内から何とも言えない暖かい感じが込みあげてきて、何かを何者かが自分に伝えようとしている感覚に打たれたのです。・・・・・この時に私の直観どおり、私の手が他人のように動きはじめました。そしてカードのなかに「イイシラセ イイシラセ」とカタカナでいくつかのことを書いていったのです」
父親の忠義によれば、隆から「霊感」が下ったとの連絡があったとき、兄の力ともども、頭がおかしくなったのではないかと語り合ったという。
「すぐに東京にかけつけて、宿舎の市町村会館で「霊能」実験をやってみた。隆が高級霊を呼びだすとたちどころに現れる。はじめは半信半疑だったが、天才的な大霊能者になったことを確信した」
だが、トーメン時代、そうした「神がかり」的な姿を目撃した者は ほとんどいない。かつての同僚たちの間に、「本を読むのがモーレツに速かった。赤ペンで線を引いていくという読み方で、一日に四冊読むこともあるといっていたし、給料の半分は本代でとぶ、ともいっていた」
「仕事熱心で、三菱商事を必ず抜く、というのが口ぐせだった」という声はあっても、宗教的片鱗を見たという証言はなかった。ただ、やはり東大からトーメンに入社した大川の後輩は、上司からこんな話を聞いたことはあるという。
「あるとき大川さんが、同僚に向かって「おまえの背中には狐が憑いている!」といってお祓いを始めたことがあるそうで、それ以来、彼のことを誰も相手にしなくなったとのことでした」
もう一つ気になる証言がある。GLAの元会員によれば、昭和55か56年ごろ、大川はある女性につれられて、その元会員がひらいていた心霊療法の治療にやってきたことがあるという。
「一目みて心身症だとわかりました。苦虫を千匹も かみつぶしたような顔をして、なんでも税理士の試験を2回、すべったということでした」
大川とその女性はヨガ道場で知り合ったとのことで、その後、その女性からは大川が文学賞をめざして小説を書いているとの手紙も もらった。
宗教家・大川が初めて世間に姿を現すのは、昭和60年(1985年)8月。『日蓮聖人の霊言』という処女作を掲げてのデビューだった。ただしこの当時、大川はまだトーメンに在職しており、その著書も本人ではなく、善川三朗の名で出版された。
それから約1年後の昭和61年(1986年)7月、大川はトーメンを退職。本格的に宗教活動にのめりこんでいくことになる。
宗教家・大川の最大の特徴が、霊界の住人をたちどころに呼びだせる「霊示」能力にあることはすでに述べた。だが、その能力については、当初より大きな疑念がもたれていた。
昭和60年(1985年)春、広島県福山市に住む心霊研究家の近藤一雄のところに一通の手紙が舞いこんだ。差出人は善川三朗で、私の息子にはたいへんな霊能力がある、ついてはその問答を録音したテープを送るので聞いてほしいとの内容だった。送られてきた2本の120分テープを聞いて、近藤は まるで話にならないと思った。だが そのことには直接ふれず、善川には、「息子さんは まだお若い。もう少し修行なさってからでも遅くないでしょう」という旨だけを記した手紙を出した。
それから数カ月後、そのテープをもとにした『日蓮聖人の霊言』が出版されたことを知った近藤は驚くと同時に、善川の突然の手紙の真意が初めてわかったような気がした。心霊関係の出版社に顔のきく近藤に口をきいてもらいたかったのではないかと感じたのである。
それにしても、昭和56年(1981年)に「霊示」を受けたとされる大川は、なぜ四年間以上もそれを雌伏させなければならなかったのだろう。霊能力にまだ確信をもってなかったからだろうか。いや、というよりは大川にこの時点から、「霊能力者」としてデビューしなければならない事情があったのではなかろうか。
『日蓮聖人の霊言』につづいて空海、キリスト、ソクラテスなどの霊言が立てつづけに出版されたが、これらはいずれも善川三朗の著となっており、大川と兄の力(筆名・富山誠)は、その著作を補佐する役割に回っている。ところが昭和61年7月、すなわち大川がトーメン退社を決意した時点で出版された坂本龍馬の霊言以降、「富山誠」の名前は ひっこめられ、さらにその五カ月後に出版された高橋信次の霊言から大川ひとりの著作となるのである。
この間に何があったのか。京大卒業後、郷里の徳島に戻った兄の力は、徳島駅前で「太陽学園」という進学塾を開いたものの、思うように生徒が集まらず不振をかこっていた。父の忠義は昭和59年(1984年)、二十年間つとめた徳島県畜産会を退職しており、当時は「太陽学園」の事務長という身分だった。君子が経営する床屋のほうは開店休業の状態で、中川一家の家計は、もっぱら この進学塾によって支えられるほかはなかった。
そこへ病魔が襲った。一家の大黒柱ともいうべき力が、若年性高血圧による脳溢血で突然、授業中に倒れたのだ。幸い一命はとりとめたものの、「太陽学園」は閉鎖され、力の入院費用も重なって、中川一家は新たな生計の道を探らなければならなくなった。
「霊能力者」大川のデビューは、まさにこの時点から始まるのである。
「月刊Asahi」1991年4月号より抜粋
最後に、今まで誰にも話したことはありませんでしたが、私のこの佐野さんの記事との出会いについて残しておきたいと思います。
私が佐野さんの記事に触れたのは、91年の9月下旬、当時練馬区関町にあった教祖邸宅に隣接した秘書詰め所で、秘書部の同僚であった須呂崇司さん(故人)が仕事の一環として収集していた黒いファイルに綴られていたコピーを通じてのことです。
記事が掲載された4月頃の私はまだ一般会員で、幸福の科学の運営に若干の疑問を抱きながらも、ある意味でそれを打ち消すかのように地区の青年部長とチーム長を兼務しながら昼夜を分かたず活動にのめり込んでいた時期でしたので、外部の情報に意識を割く余裕などない状況でした。
そして、そうした日頃の活動や、また幸か不幸か講師登用試験に通ったものの待機扱いになるといった珍事が誰かの目にとまり、推薦を受けて8月には発足したての秘書部警護課の職員になってしまっていました。
そして、秘書部警護課に入って1ヶ月目のことです。大川隆法が講談社フライデー事件を起こしました。このとき漠然と抱きながら自ら蓋をしようとしていた煩悶の答えを手に入れると同時に、自らの決定的な失敗を自覚しました。
「やはり言ってる事と、やってる事がまるで違う。その元凶は誰でもない大川自身だった。ここから先は聖域だからと、今までメスを入れることを躊躇っていた領域こそが実は魔界だった。自分は選択を誤った」と。
そんな時期に、私はこの記事に出会いました。大げさに聞こえるかも知れませんが、思慮に欠けていたことで人生に大きく躓き、道を見失って糸の切れた凧のようになりかけていた青二才に、佐野さんの記事が生きなおすヒントを与えてくれたと感じています。
そもそも「真理の探究」を目的として入会したのだから、一度しくじったくらいで挫けずに、それが過ちと分かったからこそ尚更に、後に迷いを残さぬよう間違いをトコトン突き詰めてやろうという考え方になれたことで、自分を腐らせずに済みました。
いかにしてこの状況から穏便に抜けるかを思案しつつ、それまでの間は、せいぜいカルトの内部を徹底的に見聞してやろうと、予期せず徳島の善川顧問付き秘書役の打診があった際も、まったく正気の沙汰ではないと思いますが、このカルトの根源たる大川家全員に直接会える千載一遇のチャンスと臆せずいられたのも、まさしく佐野さんの記事が自身の眼を開かせ、燻っていたヘソ曲がり根性に再点火して頂いたお陰であり、結果的にそれなくして今の私はありえませんでした。

この記事を評するとき、私自身にはそれくらいのボルテージがあります。
敬意を込めて、ノンフィクションライター佐野眞一さんのご冥福を祈ります。
本当にお世話になりありがとうございました。
そんな佐野さんですが、幸福の科学の大川隆法について書いた記事があります。記事は全9ページにわたるボリュームで「月刊Asahi」1991年4月号に掲載されました。

当時はというと、1990年12月8日に読売新聞朝刊の一面広告で大川が初めて顔出ししたのをきっかけに、少しづつマスコミにその名が広まりつつあったものの、幸福の科学はオウム真理教の奇行の影に隠れながら静かに拡張を続ける新興宗教のひとつという程度の扱いにすぎず、それが良くも悪くも注目を集めるようになるには、7月の東京ドームの御生誕祭や9月の講談社フライデー事件を待たねばなりませんでした。
しかし、そうしたカルトの胎動が衆目に触れる以前に、既に幸福の科学の諸問題の核心に迫るレポートがなされていたわけです。丁寧に取材され充実した内容で、以降の様々な記事も佐野さんのルポを参考に肉付けしたものであろうと想像できます。
昨今の大川隆法や幸福の科学の乱痴気ぶりからすれば、最早その俗物性やカルト性の理解の妨げになるものはないと思いますが、ただしカルト問題として考察する時には、いかにも分かりやすい異常さにだけ着目するのではなく、そのカルトの萌芽から変遷を理解するように努めなければ、決して問題の本質に辿り着けないだろうと考えています。
また、数年前のことになりますが、大川がある本部職員に命じて、徳島の郷土史を買いあさらせているといった情報提供を受けたことがあります。大川の長男である宏洋の離反によって最終的にお蔵入りとなってしまった映画「さらば青春、されど青春。」、そこでの自分史改竄の企画を控えていた大川が、その障害になり得るような事実を消し去ろうとする目論見と考えられ、自己の神格化のために出自について掘り返されることを恐れている様子が窺えました。
そうした観点からも、この記事は大川隆法や幸福の科学というカルトを理解しようとするとき、その前提となる必須の基本情報を豊富に含んだ大変重要な記録だと考えています。全文掲載は控えますが、その一部分をここに抜粋してご紹介し、生前の佐野さんのお仕事を偲びたいと思います。

佐野眞一氏
「幸福の科学主宰 大川隆法 挫折だらけの生いたち」
大川隆法こと中川隆は、昭和31年(1956年)7月7日、父・中川忠義(幸福の科学内部での通称は善川三朗)母・君子の次男として、徳島県麻植郡川島町大字桑村に生まれた。
徳島からJRで40分ほどいった川島駅前の敷地20坪足らず、モルタル2階建ての小さな生家はいま空き家となっており、両親は現在、徳島市八万千鳥の敷地約120坪という、かなり大きな会員宅を無料提供されて住んでいる。
中川隆のこれまでの軌跡をたどるには、その父の中川忠義について触れなければなるまい。
中川忠義は大正10年(1921年)11月、父・源佐エ門、母・テルノの次男として麻植郡樋山地(現・鴨島町)に生まれた。地元の古老によれば、父の源佐エ門は小作のかたわら大工仕事もしていたが、その生活は村でも最底辺であったという。
その父も死に、昭和のはじめ、中川一家は川島町に新天地を求めたものの、生活は いっかな好転せず、昭和9年(1934年)、母と幼い子供ら4人は、東京の書店で働く異腹の兄を頼って上京することを余儀なくされた。麻布台のボロ家に身を寄せた一家は思い思いの働きで、貧しい家計を支えた。
忠義によれば、この東京生活の間、矢内原忠雄門下の無教会派で学んだ後、乃木坂にあった「生長の家」の門をたたき、谷口雅春から じきじきの教えを受けるなど、いくつかの宗教遍歴をつんだという。
戦後、故郷に戻った忠義は麻植郡美郷村の中枝小学校の代用教員をつとめた。だが多感な性格から教職を投げだし、戦後の一時期は共産党運動に走った。
当時、一緒に運動にかかわった仲間によれば、忠義は只芳の偽名で、県委員会機関紙「徳島新報」の編集兼発行人をつとめていたという。
「只芳という名前から、ロハさんと呼ばれていた。入党はしていなかったが、機関紙の編集兼発行人だったから、みんなからは「アカ」と思われていた」
日本共産党中央委員会の理論政治誌『前衛』1984年11月号は「わが地方の日本共産党史(V)」として、徳島県を特集している。そこにも古い活動家として中川只芳の名前が紹介されている。
共産党を離れてからの忠義は、当時めずらしかったマロングラッセの製造販売を手がけたり、毛糸の編み針の製造会社を興すなどしたが、いずれもうまくいかず、さらには結核に倒れ、1年間の療養生活を送らねばならなかった。
その間の生活は、理容学校出身の母・君子が、家の階下を床屋にして支えた。
忠義にようやく経済的安定の道がひらけるのは、かつて日共の運動仲間だった県畜産課職員を頼って、昭和39年(1964年)4月、社団法人・徳島県畜産会に就職してからのことである。
この間、忠義はたまたま徳島を訪れた生長の家系統の新興宗教、GLAを主宰していた高橋信次の講演を聞き、深い宗教的感銘も受けている。
多感な性格から政治的活動や宗教的遍歴を重ね、常に経済的不安につきまとわれてきたその忠義は、毎晩のように子供に向かって宗教に関する話をし、その一方で、強烈な一流志向と上昇志向を植えつけた。
「どんな田舎の学校であっても、どんな小さな学校であっても、一番だけは違うよ。どんな狭い地域社会においても、一番だけは値打ちがあるかもしれないよ」
片田舎での英才教育。中川一家の近所での評判があまり芳しくないのは、ある意味で仕方のないことなのかもしれない。
「人柄は悪くはないんだが、忠義さんは ちょっと人を見くだしたところがある。君子さんは君子さんで、あんまり息子自慢をするものだから、誰もあの床屋には行かなくなってしまった」
四歳年上の兄・力の存在も、隆の向学心に拍車をかけた。
県下の進学校、城南高校から京大文学部哲学科にストレートで入学した力は、生まれたときから頭脳明晰で、弟の隆としては「兄に負けまい」との圧迫感が常につきまとい、小学校時代から夜中の12時まで勉学に励まなければならなかった。
川島小学校を一番で卒業した隆は川島中学に進み、ここでも一番を通した。担任教師によれば、隆は生徒会長もつとめ、卒業色紙には「人生は短き夏にして、人は花なり」などと、中学生とも思えぬませた詩を書き、卒業写真の撮影では、担任教師を手招きで呼び寄せ、二人して真ん中におさまるなどのソツない芸当を平然とやってのける生徒だったという。
しかし、十で神童、十五で才子、二十歳すぎればタダの人という俚言を地でいくように、県下から俊英の集まる城南高校に入学してからの隆は、なにひとつ目立たない存在となってしまった。高校時代のクラスメイト、剣道部時代の仲間など十数人に たずねても、はっきりとした記憶さえよみがえってこない。
返ってくるのは、「そんなヤツおったかなという程度。エッ、東大に入ったんですか。勉強も全然できるほうじゃなかったのになあ・・・・」という そっけない答えや、「覚えているのは、通学列車のなかでも参考書を一心不乱にのぞきこんでいたことくらいかな。みんなとも遊ばなかったし、小太りで運動神経もニブく、女生徒にはまったくモテなかった」という証言だけだった。仏陀の生まれ変わりとして女性会員から熱烈にあがめたてまつられる現在の大川とは、まるっきり別人のような人物像ばかりなのである。
高校時代の担任教師によれば、隆の進路指導の父兄面接には必ず父親が現れ、一貫して東大進学を希望していたという。
だが、東大受験にはあえなく失敗。隆は京大生の兄を頼って、京都の駿台予備校に入った。
一浪後の昭和51年(1976年)、東大文Iに入学した隆は、学者をめざして猛勉に励んだ。やはり城南高校から東大文Iに進んだある同期生は、「学者になるには最低三か国語をマスターしなければいけない。ぼくはリンガフォンを買って勉強しているんだ」という隆のキャンパスでの言葉を妙に生々しく覚えている。だが、法学部政治コースに進み、篠原一教授のゼミに入ったものの成績は上がらず、東大に助手として残るとの夢は砕かれた。
全国から集まった秀才たちのなかで劣等感の虜となり、やがて対人恐怖症にも陥った。都会育ちの女性に恋をして、山のようなラブレターを送ったあげく、失恋に終わったことも、なおいっそう失意をつのらせた。
それでもなお、父親の息子に寄せる期待の大きさは変わらなかった。下宿先の大家によれば、父親は、洋服から靴までをあつらえて送り、隆に衣服を買うことを許さなかった。
昭和55年(1980年)、隆は国家公務員試験と司法試験を受けたが、いずれも失敗。翌年、東大を留年して再チャレンジしたものの、やはり不合格に終わった。
エリートコースへの道をことごとく閉ざされた隆は、結局、昭和56年(1981年)、総合商社・トーメンに就職する道を選びとる。同年の東大法学部卒業生によれば、東大生にとってトーメンは三流商社でしかなく、もし望んで就職したとすれば、きわめて異例のことという。
大川に最初の「霊感」が現れたのは、そのトーメンに入社する直前の昭和56年(1981年)3月のことだったとされている。そのときのことを、大川は自著『平凡からの出発』のなかで、こう語っている。
「・・・・・内から何とも言えない暖かい感じが込みあげてきて、何かを何者かが自分に伝えようとしている感覚に打たれたのです。・・・・・この時に私の直観どおり、私の手が他人のように動きはじめました。そしてカードのなかに「イイシラセ イイシラセ」とカタカナでいくつかのことを書いていったのです」
父親の忠義によれば、隆から「霊感」が下ったとの連絡があったとき、兄の力ともども、頭がおかしくなったのではないかと語り合ったという。
「すぐに東京にかけつけて、宿舎の市町村会館で「霊能」実験をやってみた。隆が高級霊を呼びだすとたちどころに現れる。はじめは半信半疑だったが、天才的な大霊能者になったことを確信した」
だが、トーメン時代、そうした「神がかり」的な姿を目撃した者は ほとんどいない。かつての同僚たちの間に、「本を読むのがモーレツに速かった。赤ペンで線を引いていくという読み方で、一日に四冊読むこともあるといっていたし、給料の半分は本代でとぶ、ともいっていた」
「仕事熱心で、三菱商事を必ず抜く、というのが口ぐせだった」という声はあっても、宗教的片鱗を見たという証言はなかった。ただ、やはり東大からトーメンに入社した大川の後輩は、上司からこんな話を聞いたことはあるという。
「あるとき大川さんが、同僚に向かって「おまえの背中には狐が憑いている!」といってお祓いを始めたことがあるそうで、それ以来、彼のことを誰も相手にしなくなったとのことでした」
もう一つ気になる証言がある。GLAの元会員によれば、昭和55か56年ごろ、大川はある女性につれられて、その元会員がひらいていた心霊療法の治療にやってきたことがあるという。
「一目みて心身症だとわかりました。苦虫を千匹も かみつぶしたような顔をして、なんでも税理士の試験を2回、すべったということでした」
大川とその女性はヨガ道場で知り合ったとのことで、その後、その女性からは大川が文学賞をめざして小説を書いているとの手紙も もらった。
宗教家・大川が初めて世間に姿を現すのは、昭和60年(1985年)8月。『日蓮聖人の霊言』という処女作を掲げてのデビューだった。ただしこの当時、大川はまだトーメンに在職しており、その著書も本人ではなく、善川三朗の名で出版された。
それから約1年後の昭和61年(1986年)7月、大川はトーメンを退職。本格的に宗教活動にのめりこんでいくことになる。
宗教家・大川の最大の特徴が、霊界の住人をたちどころに呼びだせる「霊示」能力にあることはすでに述べた。だが、その能力については、当初より大きな疑念がもたれていた。
昭和60年(1985年)春、広島県福山市に住む心霊研究家の近藤一雄のところに一通の手紙が舞いこんだ。差出人は善川三朗で、私の息子にはたいへんな霊能力がある、ついてはその問答を録音したテープを送るので聞いてほしいとの内容だった。送られてきた2本の120分テープを聞いて、近藤は まるで話にならないと思った。だが そのことには直接ふれず、善川には、「息子さんは まだお若い。もう少し修行なさってからでも遅くないでしょう」という旨だけを記した手紙を出した。
それから数カ月後、そのテープをもとにした『日蓮聖人の霊言』が出版されたことを知った近藤は驚くと同時に、善川の突然の手紙の真意が初めてわかったような気がした。心霊関係の出版社に顔のきく近藤に口をきいてもらいたかったのではないかと感じたのである。
それにしても、昭和56年(1981年)に「霊示」を受けたとされる大川は、なぜ四年間以上もそれを雌伏させなければならなかったのだろう。霊能力にまだ確信をもってなかったからだろうか。いや、というよりは大川にこの時点から、「霊能力者」としてデビューしなければならない事情があったのではなかろうか。
『日蓮聖人の霊言』につづいて空海、キリスト、ソクラテスなどの霊言が立てつづけに出版されたが、これらはいずれも善川三朗の著となっており、大川と兄の力(筆名・富山誠)は、その著作を補佐する役割に回っている。ところが昭和61年7月、すなわち大川がトーメン退社を決意した時点で出版された坂本龍馬の霊言以降、「富山誠」の名前は ひっこめられ、さらにその五カ月後に出版された高橋信次の霊言から大川ひとりの著作となるのである。
この間に何があったのか。京大卒業後、郷里の徳島に戻った兄の力は、徳島駅前で「太陽学園」という進学塾を開いたものの、思うように生徒が集まらず不振をかこっていた。父の忠義は昭和59年(1984年)、二十年間つとめた徳島県畜産会を退職しており、当時は「太陽学園」の事務長という身分だった。君子が経営する床屋のほうは開店休業の状態で、中川一家の家計は、もっぱら この進学塾によって支えられるほかはなかった。
そこへ病魔が襲った。一家の大黒柱ともいうべき力が、若年性高血圧による脳溢血で突然、授業中に倒れたのだ。幸い一命はとりとめたものの、「太陽学園」は閉鎖され、力の入院費用も重なって、中川一家は新たな生計の道を探らなければならなくなった。
「霊能力者」大川のデビューは、まさにこの時点から始まるのである。
「月刊Asahi」1991年4月号より抜粋
最後に、今まで誰にも話したことはありませんでしたが、私のこの佐野さんの記事との出会いについて残しておきたいと思います。
私が佐野さんの記事に触れたのは、91年の9月下旬、当時練馬区関町にあった教祖邸宅に隣接した秘書詰め所で、秘書部の同僚であった須呂崇司さん(故人)が仕事の一環として収集していた黒いファイルに綴られていたコピーを通じてのことです。
記事が掲載された4月頃の私はまだ一般会員で、幸福の科学の運営に若干の疑問を抱きながらも、ある意味でそれを打ち消すかのように地区の青年部長とチーム長を兼務しながら昼夜を分かたず活動にのめり込んでいた時期でしたので、外部の情報に意識を割く余裕などない状況でした。
そして、そうした日頃の活動や、また幸か不幸か講師登用試験に通ったものの待機扱いになるといった珍事が誰かの目にとまり、推薦を受けて8月には発足したての秘書部警護課の職員になってしまっていました。
そして、秘書部警護課に入って1ヶ月目のことです。大川隆法が講談社フライデー事件を起こしました。このとき漠然と抱きながら自ら蓋をしようとしていた煩悶の答えを手に入れると同時に、自らの決定的な失敗を自覚しました。
「やはり言ってる事と、やってる事がまるで違う。その元凶は誰でもない大川自身だった。ここから先は聖域だからと、今までメスを入れることを躊躇っていた領域こそが実は魔界だった。自分は選択を誤った」と。
そんな時期に、私はこの記事に出会いました。大げさに聞こえるかも知れませんが、思慮に欠けていたことで人生に大きく躓き、道を見失って糸の切れた凧のようになりかけていた青二才に、佐野さんの記事が生きなおすヒントを与えてくれたと感じています。
そもそも「真理の探究」を目的として入会したのだから、一度しくじったくらいで挫けずに、それが過ちと分かったからこそ尚更に、後に迷いを残さぬよう間違いをトコトン突き詰めてやろうという考え方になれたことで、自分を腐らせずに済みました。
いかにしてこの状況から穏便に抜けるかを思案しつつ、それまでの間は、せいぜいカルトの内部を徹底的に見聞してやろうと、予期せず徳島の善川顧問付き秘書役の打診があった際も、まったく正気の沙汰ではないと思いますが、このカルトの根源たる大川家全員に直接会える千載一遇のチャンスと臆せずいられたのも、まさしく佐野さんの記事が自身の眼を開かせ、燻っていたヘソ曲がり根性に再点火して頂いたお陰であり、結果的にそれなくして今の私はありえませんでした。

この記事を評するとき、私自身にはそれくらいのボルテージがあります。
敬意を込めて、ノンフィクションライター佐野眞一さんのご冥福を祈ります。
本当にお世話になりありがとうございました。
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